2018年09月14日 1542号

【新・哲学世間話(6) 田端信広 「道徳」を教えることはできるか】

 「学習指導要領」の改訂で、今年度を移行措置期間として2020年度から小学校で「道徳」を教科とすることがすでに決定されている。戦前の苦い反省を踏まえ、戦後しばらく「道徳」が学校で教えられることはなかった。1958年以降の「道徳」の時間もあくまで教科外≠フ活動であったが、今度はそれを正式に教科として、週1回、年間35時間教えるというのである。

 だが、「道徳」を教科として教えることは根本的に誤っている。そもそも、「道徳」は教えることも、教えられることもできない性質のものだからである。

 「道徳」を教えることができると思っている人は、それを社会のルールや規則の学習とか、家庭や社会での人との接し方の習得と勘違いしているのだろう。それなら、そのことを教える教科を「生活ルール科」とでも呼べばいいだけの話である。

 それらは本来の「道徳」とは違うものである。それらはむしろ「法」や規則の領域に属するものである。古来、人間の行為を「法」によって裁くことはできるが、人の「内面」を外部から裁くことはできない、と言われてきた。人間の行為の「外面的規範」が「法」であるのに対し、その「内面的規範」は「道徳」と呼ばれてきた。「規範」とは、行為の成否を評価、判断する基準のことである。「法」と「道徳」は、はっきりと区別されなければならない。

 この場合、「道徳」がかかわっているのは、「人間はどうあるべきか」、あるいは「人はどう生きるべきか」ということ、つまり人の「内面的価値観」の問題である。この問題に、外部から公権力が介入することは許されない。これは、近代社会の常識である。

 「道徳」の前身である戦前の教科「修身」の犯した誤りは、国家が国民の「内面」に介入し、「国民はみなこう生きるべきである」と教え、それを強制したことにあった。「修身」は、単に軍国主義と結びついていたから否定されたのではない。それ以前に、「修身」の名のもとに、社会が「こうあるべき」と考える人間像を、公権力が教え、強要してきたから、否定されたのである。

 この動きを推進する側の言い分は、まったく説得力を欠いている。たとえば「多様な価値観」を教えるためだとか、「いじめ対策」にもつながるとか語っており、その言い分は支離滅裂である。そういうことを教えるのが、なぜ「道徳」でなければならないのか。

 当然、こうした動向は、特定の政治勢力によって推進されていると言えよう。「旧き良き日本」というノスタルジーをいまだ捨てきれない連中は、あわよくばもう一度、多様性とは対極にある一様で従順な国民を形成したいと思っているのである。

   (筆者は大学教員)
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