2018年09月28日 1544号

【ノー・ハプサ(NO!合祀)第2次訴訟 「靖国合祀で2度殺された」 怒り、悔しさ訴える遺族原告】

 植民地支配の清算どころか、日本政府はいまだ被害者に謝罪すらしない。韓国人の元日本軍軍人軍属の遺族は、靖国合祀(ごうし)取り消しさえ拒む政府・靖国神社に「合祀によって2度殺された」と闘い続ける。

 9月12日、東京地裁で開かれたノー・ハプサ(NO!合祀)第2次訴訟で韓国から来日した3人の遺族が訴えた。

父の名誉回復のために

 朴南順(パクナムスン)さんの家は農家で、4人兄弟の長男だった父は22歳の1942年11月、海軍軍属として南洋諸島に動員された。南順さんは母のお腹の中で、父の顔も知らない。父は郵便局でも働いており、一家は働き手を失い経済的に厳しくなった。「祖母は『日本の野郎たちが連れて行った』といつも言っていた。父と一緒に行った地元の友人が帰還して『父は死んだ』と告げられた。祖母は何日も食事せず、ただ泣いていたそうだ。子どもが死んだ親の気持ちを想像してみてください」。裁判長に向かって訴えかけた。母は再婚して離れ、南順さんは祖父母に育てられた。

 父は創氏名「新山満秀」で靖国神社に合祀されている。合祀の通知はなく、戦死の日や場所、合祀の書面は自分で調べて入手した。「(創氏名は)屈辱的だ。軍人軍属は植民地支配の中で、日本の協力者のように見られている。父の名誉回復のために合祀の取り下げを」と求めた。

 南順さんは靖国神社を2度訪れている。「警察に追い出されて中には入れなかった。父を神として祀っているのに、遺族らしい対応すらされていない」。激しい怒りをあらわにした。

 李炳順(イビョンスン)さんも、父が海軍軍属で動員された時、母のお腹にいた。父は農業、建築業を営む働き者で村では評判だった。動員された村人は帰ってきたが父は帰ってこない。「それでも母は生きていることを信じ、成長した子ども(私と姉)を見せたいと、再婚もせずに働いた」。農業だけでは教育を受けさせられないと、2人を母のふるさとに預けて様々な仕事につき仕送りを続けた。「しかし仕送りでは、朝夕は雑穀を入れたご飯で、お昼は抜きの生活。でも母の思いに応えようと勉強した。姉には『私は高校までだが、あなたは大学に行きなさい』と強く勧められ、教員になることができた」。母は2007年90歳の時、「お父さんが帰ってきたら、ずっと待ちながら逝ったと伝えてくれ」と言い残して亡くなった。

 父の死を書類で確認したのは、韓国遺族会を通してだった。「父に出会えたような喜びと本当に亡くなったんだと実感し、書類を持って『お父さん』と泣き叫んだ。父は植民地支配下で強制的に連れて行かれ青春を奪われたと思うと悔しい」。炳順さんは声を詰まらせ証言台を拳で何度も叩いて、悔しさをにじませた。

 父は創氏名「李田喜敬」で合祀されている。「いまだに創氏名で呼ばれ、今でも日本に支配されている。不愉快で許せない。私の父は『英霊』などではない。どうして加害者と被害者が同じところで祀られなければならないのか。2度殺されたのと同じだ」。最後に裁判長に向かって訴えた。「父は尊厳を無視されたまま。どうか人間の尊厳を大事にしてください」

遺骨さえ返されない

 朴梅子(パクメジャ)さんの父も海軍軍属で、1942年8月に動員され1944年4月に亡くなった。父は母と再婚後、7か月の短い結婚生活で動員され、梅子さん誕生後1年で亡くなっている。農家の大黒柱を失ったため、梅子さんが3歳の時に母は再婚し、以降母、2人の姉、梅子さんはばらばらの生活となった。「引き取られたうちでは私は学校に行かせてもらえなかった。通学している同世代の姿を見て『父がいてくれさえしたら』と、悲しかった。文字の読み書きは自分で練習した」

 日本の厚労省発行の書類で、1999年に父の戦死の記録を見て確認した。1944年太平洋メレヨン島で銃撃により死亡とある。遺骨返還の記録もあるが、梅子さんは「嘘だ。遺骨は戻ってきてない」という。「遺骨さえ返されなくて恨みがある。合祀によって魂まで監禁されており悲しい。一日でも早く名前を取り消して家族の元に戻してほしい」と語気を強めた。

 合祀取り消しを拒否する日本政府の対応が東アジアの平和関係樹立を妨害するものでしかないことを改めて鮮明にした原告証言だった。



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