2018年11月23日 1552号

【非国民がやってきた!(294) 土人の時代(45)】

 ステファニー・スコットによると、各文化の信念体系は人骨の持つ意味について異なる理解を生み出します。19世紀に医学を発展させた欧州諸国では人格と物の結びつきを切断しました。身体を客体とする理解は欧州人や欧州系カナダ人に、死後の身体に精神はとどまらないと考えさせることになりました。しかし、多くのファースト・ネーションズにとっては複数の精神が身体に宿り、死後も遺骨に精神がとどまると理解されています。

 死と身体をめぐる理解の差異が遺骨返還問題にも影響を及ぼしています。先住民族の間にも多様な理解がありますが、カナダのファースト・ネーションズの多くは、人が死ぬと、身体に宿る精神の一つが創造主のもとに旅立つが、身体に残る精神も存在すると考えます。こうした理解を欧州系カナダ人は受容しようとしてきませんでした。

 ブリティッシュコロンビア州のクイーンシャーロッテ諸島のハイダ人は、人の死後、「魂」が「中空」を旅し、赤ん坊に宿るまでは中空にとどまるとされます。人が死んでも、遺体を数日間は屋内に安置します。ハイダ人は18世紀に欧州人に出会い、19世紀にはキリスト教を受容しましたが、死と生に関する伝統的観念を維持しています。

 オンタリオ州とミネソタ州のオジブウェイ人の場合、人骨の位置づけがハイダ人とは異なります。遺体は木の皮に包まれ、樹上に安置され、森に置かれ、あるいは埋葬されます。埋葬するようになったのは1900年代にキリスト教に出会って以後のようです。オジブウェイ人は、2つ以上4つまでの魂が身体に宿っていて、1つは創造主のもとへ、1つは遺体に残り、その他は遺体から離れ、消えていくと考えます。

 先住民族にはそれぞれの言語、宗教、文化があり、社会意識がありますから、これらへの配慮を欠くと植民地主義的な暴力とみなされる結果になります。遺骨の所有権や遺産を展示する権利があるという議論の一方で、組織的に行われる構造的暴力に関する議論も登場します。構造的暴力が、被害を受けた社会階層の健康にとって有害な条件・環境を作り出すからです。カナダの先住民族にとって精神の健康は単に理念の問題ではありません。博物館は、重要であると考えた展示を通じて自己の権力を提示するだけでなく、ファースト・ネーションズのような周縁化された人々に支援することもできます。

 西欧世界の博物館は支配階級を積極的に支援し、社会秩序を維持しようとしてきました。他人の利益のために先住民族の遺産を搾取することが世界中で行われてきましたが、南アフリカでは博物館の雰囲気を変える努力がなされ、構造的暴力を取り除き、たとえ博物館にとって負担になったとしても、抑圧的要素を除去することが実現しました。アパルトヘイトの終了後に、南アフリカの博物館は脱植民地化を実現しました。

 ここでは誰が正確な文化を提示できるかという問いが生まれます。文化や伝統の展示が誰の視点で構築されているかと問えば、「中立」概念が成立しないことが判明します。人類学や考古学における客観性や真実という概念も、誰にとっての意味なのかを考えなくてはなりません。

 博物館は社会秩序の領域であり、歴史を消去してしまう機能を有します。文化遺産の複数の声による解釈を導入すれば、確かな歴史解釈の領域を作り出すことができます。特定の観点から伝統や文化を博物館の内部に閉じ込めるよりも、「文化ツーリズム」という形で、現地へ赴いて学習することにより、人々は自己の文化とは異なる文化に出会い、学ぶことができます。グローバルな観衆を迎えることによって、伝統的文化は自己の文化についての正確な情報を再獲得することができます。

 ステファニー・スコットは、カナダにおける博物館の遺骨展示問題を素材に、植民地主義の暴力という問題を焦点化しますが、植民地主義の暴力の責任追及をするよりも、いかに変えて、脱植民地化しうるかを探求します。その一つの解答が文化ツーリズムです。文化は博物館に安置するべきものではなく、それぞれの地域で生きる人々のもとにあって初めて文化として成り立っています。文化は固定したものではなく、周辺文化や訪問者の文化との交流の中で変容していきます。グローバリゼーションの時代の博物館はいかにあるべきかも、ここから問い直しが始まります。
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