2018年12月14日 1555号

【哲学世間話(7) 田端信広 「罪」と「責任」】

 韓国最高裁での「元徴用工」への損害賠償判決にからんで、またまた悪質な反韓国キャンペーンが繰り広げられている。判決の正当性とその法的根拠などについては、すでに本紙でも何度かとりあげられており、それをここで繰り返す気はない。

 こうしたキャンペーンに接して、筆者は「またか」という思いを禁じ得ない。この「徴用工問題」にかぎらず、日本(政府)は侵略の責任、戦後補償問題全般に対して、一貫して間違った態度と対応をとり続けてきており、そのために次々とさまざまな損害賠償問題が提起されてきたのである。原因は韓国の側にあるのでなく、日本の側にある。だから、筆者の「またか」という思いは韓国にではなく、日本に向けられている。

 日本の姿勢と対応のどこか間違っているのか。それは、日本政府が侵略と植民地支配の「責任」を一度も認めていない点である。この点は、従来からよく指摘されてきたように、ドイツの戦後処理の基本原則と日本のそれを比べれば明瞭になる。

 「徹底的に反省し償うドイツと、過去を暗に正当化しようとする日本」。広くそう評されてきた両国の対照的姿勢を確認するには、あのあまりにも有名なヴァイツゼッカー演説を想い起こすのがいちばん良い。それは1985年5月8日、ドイツ連邦議会で行われた。後に統一ドイツの初代大統領ともなったヴァイツゼッカーは、演説の冒頭から、ナチスドイツが国の内外で繰り返した犯罪的行為を一つずつ事細かに挙げながら、その犠牲者たちの痛みに思いを馳せている。そして彼は演説の中段でこう語りかけた。

 それらの犯罪的行為が行われたとき「子ども」であった者や「まだ生まれてなかった」者にその行為の「罪」を帰すことはできない。―「しかしながら、先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」

 犯罪行為に手を下さなかった者にまで「罪」を問うことはできない。しかし、戦後生まれのわれわれも、その行為がもたらした帰結に対して「責任」を負っているのである。

 少し想像力を働かせて、侵略の犯罪的行為が中国や韓国の人民に何をもたらしたのか、彼らの心に何を焼き付けたのか、に思いを巡らさねばならない。そうすれば「俺がやったことでない」からと、その現実から目を背けることは許されないであろう。もし「(韓国側は)しつこい」とか「いつまで言っているんだ」と思う人がいるとすれば、ヴァイツゼッカーの言葉を深くかみしめてみる必要がある。

    (筆者は大学教員)
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