2019年04月26日 1573号

【象徴天皇制とは何か 社会矛盾と対立の忘却効果/「国民統合」への根本的批判が必要】

 天皇の代替わりまであとわずか。明仁天皇は「象徴天皇制の在り方」を模索してきたと評されるが、そもそも天皇の象徴機能とは何なのか。それはいかなるイデオロギー装置の役割をはたしているのだろうか。

 世間は「令和」ブームに沸いている。このブームは政治的な意図をもって仕掛けられている。マスコミはこぞってその「提灯持ち」に精を出している。

 一部には、「令」が「命令」や「指令」の「令」を含んでいるという批判も伝えられている。だが、ネーミングの良し悪し以前に、「元号制」そのものが根本的問題をはらんでいるのである。すなわち、「昭和○○年生まれ」「平成○○年卒業」と語ることは、自分の人生をその都度の天皇の「御代(みよ)」とリンクさせている。それは個人の人生を、「天皇」―「元号」によって位置づけ、意味づけていることを意味する。

 こうして、元号の使用は、個人の人生を無意識のうちに天皇の存在とリンクさせ、それに従うことを含んでいるのである。

一体感幻想をふりまく

 だが、ここでは「元号」問題はひとまずおいて、「平成」の時代に「象徴天皇制」に基づく「国民統合」が果たした役割を振り返り、その問題点を説いておきたい。

 憲法はこう定めている。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)。次に「皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところ」による(第2条)。

 さらに、天皇のなすべき行為として、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行う」(第7条)と定める。そして「国事行為」を具体的に指定している。

 「国民統合」とは何を意味しているか。それは、いついかなる時でも「日本国民は一体であり、一つである」ということを言わんとしている。そして、この一体をなす「円の中心」に「天皇」が位置する。それが「象徴」の意味である。

 この「国民統合」イデオロギー装置を通して、現に存在する社会的諸矛盾や階級的対立は知らず知らずのうちに濾過(ろか)され、フェード・アウトさせられる。その具体例は、後に確認する。

膝つき見舞いの意味

 明仁現天皇がこの役割をもっとも効果的に果たしたのは、「国事行為」によってではなく、それと「私的行為」との中間に相当するとみなされている、(憲法に定めのない)いわゆる「公的行為」によってである。

 「公的行為」は、外国公式訪問、国内の公式巡幸、被災地訪問などを含むとされる。裕仁前天皇も、戦後すぐの国内各地への「巡幸」を皮切りに、多種多様な「公的行為」を精力的に行ってきた。だが、「平成」の時代に入ると、「公的行為」のあり方に大きな転換が起こる。

 現天皇は、「戦犯」のイメージが拭い去れない前天皇には不可能であった、外国への公式訪問を毎年のように展開した。もう一つの顕著な特徴は、災害被災地への「お見舞い」行脚を精力的に展開したことである。

 1991年7月、天皇は雲仙普賢岳爆発被災地を見舞った。これが「平成」天皇最初の被災地見舞いであり、ここに初めて「膝(ひざ)つき会話」スタイルが採られ、以後定着していくことになる。それ以降、天皇・皇后は、大震災や毎年のように起きた豪雨被災地を必ず訪問した。

 その行動スタイルは、「弱者に寄り添い、国民の幸せを希求する天皇」「国難の先頭に立つ天皇」のイメージを国民の間に定着させるのに決定的な効果を発揮した。

 たしかに、こうした行動自体とそこに込められた天皇個人の「善意」を否定することはできない。だが、国民へのこの「慈愛」と「寄り添い」が、先に述べた「国民統合」イデオロギーと表裏一体であり、それこそが「統合」の最大の手段であることも忘れてはならない。「慈愛」と「寄り添い」のもとで、すべての国民の一体感が醸成され、現存する矛盾や対立が一時的であるにせよ、忘れ去られる。

矛盾をかき消す「慈愛」

 その一例を見てみよう。2012年10月、天皇、皇后は放射能除染中の福島県川内村を訪問した。例によって、天皇は住民に被害の状況を尋ね、優しい言葉をかけた。そのことで起こった状況を、後日新聞が伝えている。住民のなかには「感激して涙を流す人もいた。両陛下の来訪後、村民の間で『自分たちのことは自分たちでやろう』という雰囲気が生まれた」(東京新聞2017年12月5日付)。

 住民の間に生まれた心情の変化は想像に難くない。陛下があんなにご心配くださっているのである。われわれも、国や東電に文句ばかり言っておらず、自分たちにできることを精いっぱい頑張ろう≠ニいうことだろう。「陛下の慈愛」が、社会的諸矛盾と対立を消し去ってしまった典型的な事例だと言えよう。

 ここには、「悪意」でものを言っている人間は一人もいない。天皇も、住民もみな「善意」なのである。しかし、諸個人の「善意」と、その「善意」の積み重ねが意識されないままに引き起こす結果とを冷静に峻別(しゅんべつ)しなければならない。

 マルクスはダンテを引用しながらこう言ったものである。「地獄への途は善意で敷き詰められている」   (T)

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