2019年05月03日・10日 1574号

【非国民がやってきた!(305)国民主義の賞味期限(1)】

 この国は近現代150年の間に見事な国民統合を実現しました。現在進行中の改元と天皇代替り、そして2020年の東京オリンピックが、国民統合の一大キャンペーンであることは言うまでもありません。

 西欧近代諸国が国境線を引いて外と内を区画し、内に領域国家としての国民国家を樹立したように、日本も列島という条件の下、海上の国境線によって外と内を区画し、天皇の支配領域を定め、大日本帝国憲法を制定しました。藩や「方言」(地域の多様な言葉)を整形し、平準化し、国語、国民を創出し、教育制度と軍隊を柱とする国家装置を通じて国民の身体と意識を造形しました。

 イデオロギーとしての国民主義は、内には忠良なる臣民、赤子を育て上げ、国民統合を進めると同時に、外に外国人、第三国人、「敵」を作り出しました。そのはざまに、国民統合になじまない者、まつろわぬ者があれば、これを土人や非国民として剪除するメカニズムが働きます。

 日本国憲法にあっても事態は変わりません。平和主義、民主主義、国際協調主義を掲げた憲法ですが、徹底した国民主義に貫かれています。諸々の差別の根源が日本国憲法だと言っても大げさではありません。

 日本国憲法前文第1段落第1文を見てみましょう。

 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」

 冒頭に「日本国民」が登場しますが、誰を指すのか説明はありません。前文だけでなく憲法のどこにも書いていません。正体不明の日本国民が国民主権を宣言し、憲法を制定したと述べているのです。憲法制定議会を前にした衆議院議員選挙では、旧植民地出身者と沖縄県民が排除されました。ここには誰が誰を国民と名指すのかという問いが潜んでいます。現実には恣意的な差別が予め組み込まれています。

 日本国憲法前文第1段落第2文は次の通りです。

 「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」

 国民が4回も登場し、主体としての「われら」となります。国民による国民のための政治としての民主主義が「人類普遍の原理」であるとされます。排除と差別の主体であり客体ともなり得る国民が「人類普遍の原理」を語る不思議さにほとんど誰も気づきませんでした。

 憲法第2段落は恒久平和、公正と信義を語り、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳い上げます。主語はあくまでも日本国民です。ただ、平和的生存権の主体を「全世界の国民」としているところに、単なる国民主義イデオロギーを乗り越える手がかりがあります。

 憲法第3段落は政治道徳の普遍性と主権の維持を唱え、最後の第4段落は「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と締めます。「国民の名誉」ではなく、唐突に「国家の名誉」が掲げられたところに「国民国家」の完成を見ることができます。

 国民主義の日本国憲法は、非国民を生み出し、土人を発見する社会の培養器とならないでしょうか。
ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS