2019年05月17日 1575号

【たんぽぽのように 済州(チェジュ)と大阪 李真革】

 4月3日、 大阪市天王寺区の統国寺で「済州(チェジュ)4・3追念のつどい」が開催され、駐大阪韓国総領事のほか約50名が参列した。1948年のいわゆる「済州四・三事件」から71年ぶりに、初めて日本の地で韓国の総領事がその事件で亡くなった犠牲者を慰霊した。昨年の11月18日には、在日本済州4・3犠牲者慰霊碑建立実行委員会が多くの個人・団体の協力・支援のもとで「済州4・3犠牲者慰霊碑」の除幕式を同じ統国寺で行なった。

 済州四・三は、1948年4月3日の済州島での武装蜂起に端を発し、その武力鎮圧の過程でおよそ3万人の島民が犠牲となった悲劇である。武装蜂起は当時の米軍政が実施しようとしていた「南朝鮮単独選挙」すなわち南北分断に反対して決行されたが、警察や右翼団体による島民への横暴がその引きがねとなっていた。島では右翼や警察による過酷なテロや拷問が横行し、武装蜂起はこれに対する反撃、自衛としても決行された。

 主として南朝鮮労働党員からなる蜂起勢力は350人ほどに過ぎなかった。しかし、この小規模の抗議行動に対する軍・警察の弾圧は、「焦土化作戦」といわれる凄惨な殺戮劇に発展した。49年の半ばまでには中山間(チュンサンカン)の村がほぼ焼失し、武装隊とその関係者はもとより、これとは関わりのない夥(おびただ)しい数の島民たちが虐殺された。朝鮮戦争休戦後54年の漢拏山(ハルラサン)の禁足令解除を経て、武装隊の最後の1人が逮捕されたのは57年である。その間、島の人口28万人の内3万人が犠牲となり、その8割以上は軍や警察の討伐隊によるものだ。

 済州四・三の悲劇と日本との関わりはきわめて深い。植民地期から済州島民の多くが大阪を中心に日本に渡航し、済州島と大阪は済州島民の生活圏として一体であったといっても過言ではない。討伐隊の軍や警察は植民地期の支配機構に起源を発し、武装隊は抗日運動の流れを引き継ぐ存在でもあった。さらに四・三を前後する混乱期に数多くの済州島民が命がけで日本に逃れ、その後の在日社会の一角を形づくった。大阪は「済州四・三のもう一つの現場」である。

 済州四・三は「共産暴動」とされ、語ることは久しくタブーとされてきた。沈黙の圧力はここ日本でも強かったが、88年に東京で初の追悼集会が持たれ、大阪でも98年に初めて慰霊祭が開催された。日本での済州四・三運動はその後も毎年追悼行事、当事者の声の収集、済州四・三を学ぶ現地への「慰霊の旅」の実施などを通してその活動は絶えることなく続けられている。

 4月末には、20〜30代の日本と在日の若者20人が済州島を訪ねて慰霊の旅を行なった。歴史の意味を深く刻んで、平和の道を歩むには国籍も国境もいらないと思う。

(筆者は市民活動家、大阪在住)
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