2019年06月07日 1578号

【シネマ観客席/空母いぶき/若松節朗監督 2019年 134分/自衛隊PR映画より酷い現実】

 映画『空母いぶき』が公開された。キャッチコピーは「戦わなければ守れないものがある」。領土の一部を占拠される状況下で「戦争を防ぐための戦い」に挑む自衛隊の物語である。内容的には、自衛隊違憲論争に終止符を打つと称した「安倍改憲」を後押しするような映画だが、ネトウヨ連中には不評のようだ。一体どうしてなのか。

 そう遠くない未来―。漁民を装った武装集団が海上保安庁の巡視船を襲撃。乗組員を拘束し、日本最南端の島嶼(とうしょ)を占拠した。この地の領有権を主張する新興国家「東亜連邦」の仕業のようだ。

 事態を受け、近くで訓練中だった第5護衛隊群が現地に向かった。旗艦は航空機搭載型護衛艦いぶき。「攻撃型空母の保有は憲法違反」として、厳しい批判にさらされてきた最新鋭艦である。その「空母いぶき」を敵潜水艦のミサイルが襲う。

 自衛隊に戦死者が出る中、内閣総理大臣は「防衛出動」に踏み切る。これで武器の使用制限はなくなった。とはいえ、戦闘が拡大して全面戦争に発展することだけは避けねばならない。日本の運命を決める「戦い」に「いぶき」はのぞむのだった…。

露骨な自衛隊賛美

 意外に思われるかもしれないが、本作品は自衛隊の撮影協力を受けていない。防衛省によると、協力要請がなかったという。政治的にきわどい内容ゆえに「どうせ協力は得られない」と製作側が“遠慮”したのだろうか。

 内容を理由に自衛隊が撮影協力を拒んだ事例は過去にある。たとえば、2002年公開の『宣戦布告』がそうで、「北朝鮮の兵士との闘いという内容は外交上問題がある」とされた。もっとも、「北朝鮮の工作員」に操られた幹部自衛官がイージス艦を乗っ取る話(05年公開『亡国のイージス』)でも、シナリオの一部変更を条件に、海・空自衛隊が全面協力した。

 今回の『空母いぶき』はどうか。「防衛省・自衛隊の実情または努力を紹介して防衛思想の普及・高揚となるもの」という撮影協力基準に照らし合わせれば、ほぼ満点の作品のように思える。この映画の自衛隊ときたら、国を守る責任感に燃え、難しいミッションをクリアするプロ集団という扱いなのだから。

使命は「戦争回避」?

 「専守防衛」の本分を守りつつ、どう戦うのか。その葛藤を、映画は「いぶき」艦長の秋津(西島秀俊)と副艦長の新波(佐々木蔵之介)の対立を通して描いている。

 秋津と新波は防衛大の同期という関係だ。慎重派の新波は「創設以来、一人も戦闘での死者を出したことがないのが、自衛隊の誇りだったはずだ」と釘を刺す。「違う。われわれが誇るべきは戦後何十年もの間、国民に誰ひとりとして戦争犠牲者を出してないことだ」と秋津。「国を守るために死ぬのなら、自衛官として本望だろう」

 性格も考え方も違う2人だが、「市井の人びとのささやかな幸せを守りたい」との気持ちは同じ。戦闘が「戦争」(一般国民に被害が及ぶ事態)に拡大することは全力で阻止する、というわけだ。つまり、本作品は自衛隊を「戦争回避のための実力組織」と定義しているのである。

 現実の空母は侵略用の兵器だが、劇中の「いぶき」は日本を守るために必要な存在であることが強調されている。「その時、日本はクリスマスムード一色だった」という設定もあざとい。内容的には、きわめて悪質かつ危険な自衛隊PR映画といえよう。

安倍応援団の不満

 ところが、この映画に対する安倍応援団の反応は必ずしもよろしくない。ネトウヨに至っては酷評の嵐である。出来栄えがイマイチ(主に演出の問題。テンポが悪すぎる)なこともあるが、設定変更により架空の国が敵になったことが連中は不満なのだ(かわぐちかいじ作の原作漫画は、先島諸島を占領した中国軍と「いぶき」艦隊が戦うというストーリー)。

 作家の百田尚樹のように、「安倍首相を揶揄している」とかみつくバカもいる。実際にはそのような描写はない。佐藤浩市演じる「垂水首相」は、すさまじい重圧に苦しみながらも、外交による解決を模索する。これが安倍晋三を意識しての設定なら、揶揄ではなく美化である。

 「主戦論」を唱える閣僚を毅然とした態度で制する垂水首相。「戦後の政治家が一丸となって守り続けたことが一つだけあります。この国は、絶対に戦争はしないという国民との約束です」。現実の安倍首相が絶対に口にしないセリフだ。それゆえ、安倍応援団たちは「嫌味」と受けとめているのだろうが―。

 フィクションよりもはるかに好戦的な首相の下で、自衛隊は先制攻撃能力を増強させ、メディアは「敵基地攻撃論」を煽っている。自衛隊を美化する映画が抑制的に見えるほど、現実は危険な状況に陥っているのである。

 (O)



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