2019年09月13日 1591号

【たんぽぽのように(8)ヤスパースと責任の問題 李真革】

 2000年に制定されたドイツの「記憶・責任・未来」財団法の序文は、次のように始まる。

 「ナチス国家が強制収容と強制拘禁を通じて、強制労働や無数の人権侵害行為に起因する絶滅を介して深刻な不法を行った点、ナチスの不法に関与していたドイツの企業が歴史的責任を負って、これを履行しなければならないという点、ドイツ財界の中で財団設立に参加することに決めた企業が自分でこの責任を告白したという点、過去に強行された不法と当時に受けた人間の痛みが財政給付からも決して原状回復することができないという点、ナチス体制の犠牲者として命を失ったり、その間に死亡した人のためのこの法律の制定が遅すぎれたことを認め、ドイツの連邦下院はナチス犠牲者に対する政治的、道徳的な責任を告白する。連邦下院は犠牲者に加えられた不法の記憶を未来の世代にも教えて悟らせるだろう(以下省略)」

 この序文は、哲学者、カール・ヤスパースの主張を連想させる。ヤスパースは、第二次大戦直後の1946年、著書『戦争の罪を問う(責罪論)』を通じて、戦争と残虐行為に対するドイツの政治的責任を包括的に検討し、国家暴力が強行された社会の中で普通の人が負うべき責任の重要な基準を提示した。

 彼は責任を「刑法上の罪」「政治上の罪」「道徳上の罪」「形而上的な罪」と区分し、戦後のドイツ人の中で政治的革新を模索した。「刑法上の罪」は少数ドイツ人戦犯に限定され、「政治上の罪」はドイツ国籍を持つ市民全体に相当し、「道徳上の罪」はナチスの蛮行を傍観し同調した大多数のドイツの人びとが該当し、「形而上的な罪」は収容所で生き残ったユダヤ人を含む人類全体が負担する。

 このようなヤスパースの主張は、その後ハンナ・アーレントなどの学者たちから批判を受けたりもしたが、責任の層位を区別することで私たちが問題をより明確にすることができるようになったことは明らかである。

 最近、日本と韓国のメディアには相手国への憎悪を扇動する内容が満載だ。冷静に問題の本質を把握し、その起源を見つけることは容易ではない。 「反日」という言葉は、実際には「反日本帝国主義」の略であることを見つけることが容易ではないように、問題の解答を見つけることはより困難である。

 問題の層位は幾重にも多様で、市民の一人一人が負うべき責任も色んな側面がある。市民一人は常に加害者であるか、または被害者であることはできない。絶え間なく自分を鏡に映し自分の立場を確認することは決して簡単ではないが、諦めてはいけないことではないか。そして、その上でのみ、どんな和解とどんな友好を、誰と一緒に考えられるかも可能とならないか。

(筆者は市民活動家、京都在住)
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