2019年11月01日 1598号

【天皇即位儀式でみえた闇/「国民とともに歩む」ではごまかせない/国民主権と政教分離に反する本質】

 天皇は10月22日の即位儀式において、前天皇の「国民に寄り添う」路線の継承を表明した。だが、「国民と苦楽をともに」する姿勢をいくら演出しても、天皇制には決して「開くこと」ができない部分がある。一連の代替わり儀式で本当に注目すべきはこの点なのだ。

「寄り添う」をPR

 この秋、新天皇の即位に関する儀式等が続く。10月22日、即位を国の内外に示す儀式である「即位礼正殿の儀」が行われた。台風による水害の被災者に「配慮」して延期された祝賀パレードは11月10日に実施。そして、同月14日深夜から15日未明にかけては、「大嘗祭(だいじょうさい)」という秘密の儀式が控えている。

 これら一連の儀式には、現代天皇制の「暗部」とでもいうべき側面が潜んでいる。

 前天皇アキヒトは、「戦犯ヒロヒト」たる昭和天皇の絶対的権力者という側面を消し去り、「国民とともにある天皇」「弱者に寄り添う天皇」を演出し続けた。相次いだ被災地お見舞い、そこでの「ヒザつき」言葉かけスタイルが、そのもっとも効果的な表現であった。新天皇も、この「国民に開かれた天皇」路線を継承するしかない。「象徴天皇制」を存続させる途はほかにないからである。

 この路線に沿って、今回もどういう演出がなされるかは、ほぼ予想できる。日の丸の小旗をもった人びと(前回は12万人)が沿道を埋める中でオープンカーに乗った天皇と皇后が振りまく笑顔、そして沿道の人の感想とともにこの情景を繰り返し流すテレビ報道、これがハイライトであろう。これを機に、天皇家の家族たちの仲睦(なかむつ)まじい姿等も大量に放映されるであろう。これが「国民に開かれた天皇制」のいわば「光の部分」である。

うさん臭い「大嘗祭」

 だが、今回の一連の代替わり行事には、この路線とは相いれない天皇制の「闇の部分」が存在する。

 まず「即位礼正殿の儀」では、新天皇は天皇専用の衣装をまとい「高御座(たかみくら)」にのぼり、一段高いところから国民の代表者たちに即位を宣言する。天皇は「国民とともにある」のではない。つねに国民を超えたところにいるのである。「高御座」は神話に由来する天皇の「玉座」を表し、天皇と神話の神々との繋がりを示すものである。これは今回わざわざ京都御所から運び込まれた。

 皇后は隣の「一回り小さな」「御帳台(みちょうだい)」に入り、他の成人皇族も平安衣装で勢ぞろいする。

 もっと摩訶不思議なのは、「大嘗祭」である。これは、新天皇が深夜、皇祖「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」と寝食を共にすることで、「神格」を授かる儀式とされてきた。さすがに、前回の儀式に際して宮内庁は、「これは天皇が神になる儀式ではない」と見解を発表せざるをえなかった。だが、「大嘗祭」が決して国民に開いてはならない秘密のベールに包まれた宗教的「秘儀」であることに変わりはない。天皇は「国民の総意に基づいて」天皇になるのではない、この「秘儀」を通して天皇になるのである。

私的宗教行事に国費

 この「秘儀」を行う一日かぎりの「大嘗宮」の建設費をはじめ大嘗祭にかかる費用は今回27億円と見込まれている。即位関連行事の総経費は166億円に上る。台風19号の甚大な被害への政府の緊急支出はわずか7億円である。

 天皇家の私的宗教的行事である「大嘗祭」に国費を使うことに異論、批判が止まない。今回は、天皇家の内部からも異論が出された。秋篠宮が「宗教色の強いものを国費で賄うこと」に異論を述べた(2018年11月)のである。前回同様、今回もこの支出に対して憲法違反だとの訴訟が提起されている。ちなみに、前回の同様の訴訟に対して、大阪高裁でさえ「憲法の政教分離の原則に違反するのではないかとの疑義は一概に否定できない」と述べざるをえなかった。

祝意の強制と批判封じ

 一連の即位行事は、天皇制が国民主権、政教分離の憲法原則に反する本質をもっていることを改めて露わにすることになろう。

 「国民に開かれた天皇制」路線と「決して開いてはならない天皇」との軋轢(あつれき)・矛盾はけして調停できない。それは深まるばかりである。

 政府は即位行事に「一億総祝賀ムード」を演出したいと思っている。それにとどまらず、企業や学校では陰に陽に「祝意の強制」が始まることも予想される。そして、それに反対する人びとを社会的に排除し、天皇制に関しては批判をタブー視する風潮も強まるであろう。「開かれた天皇制」はその裏面で、そのような異論や批判を封じ込める言論抑圧の温床でもあることを忘れてはならない。 (T)



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