2019年11月22日 1601号

【未来への責任(286)慟哭する遺族の思い 沖縄に届く】

 韓国の日帝強制動員被害者支援財団が主催する「日帝強制動員犠牲者遺骸に関するシンポジウム」と関連行事が10月23日から25日にかけて沖縄で開かれた。私は「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会として報告を行うため訪沖した。

 韓国からは太平洋戦争被害者補償推進協議会から沖縄戦の韓国人遺族であるパク・チュナさん、南太平洋のブラウン島の遺族であるパク・ナムスンさん、協議会代表のイ・ヒジャさんの3人が来られた。3人は、25日にはガマフヤーの具志堅隆松代表とともに沖縄県庁の大城玲子子ども生活福祉部長を訪ね「沖縄戦戦没者のDNA鑑定事業で朝鮮人遺骨も同様に鑑定・調査できるよう協力してほしい」と要請した。すでに沖縄戦遺族については県民等800人以上がDNA鑑定の事業に参加している。韓国でも163名が韓国政府により鑑定を済ませ、日本に遺骨のDNAとの照合を要請しているが、正式な外交ルートからの申し入れが確認できないという理由で照合は実現していない。今回体調が悪くて来られなかったコン・スチョンさんから玉城デニー知事への手紙も部長に付託した。

 その後、沖縄県議会文教厚生委員会の狩俣信子委員長を表敬訪問した。委員長は2年前パク・チュナさんのお父さんを摩文仁平和公園の平和の礎に刻銘することに全面的な協力をしていただいた。パクさんはすでに23日に平和の礎を刻銘後初めて訪問、チェサを行ってきたことをお礼とともに委員長に報告した。

 記者会見で、パクさんは力の限りの訴えを沖縄県民に行った。父フィテさんは1944年7月に韓国から動員され特設水上勤務第104中隊に編入後、渡嘉敷島で亡くなったとみられる。食べ物に困り民家で芋を食べていたところ、発見した日本兵に殺されたと帰国を果たした人から伝えられた。会見では当時2歳で父の顔も覚えていないこと、小さいころから学校にも行けず字が読めないことを初めて明らかにし、「アボジ」と何回も慟哭(どうこく)した。記者会見の前、喫茶店でヒジャさんもパクさんが字が読めないことを初めて聞いた。「字が読めないことは恥ずかしいことだ」というパクさんに「恥ずかしいことではない」と話すヒジャさん。3人は同じ苦しみを経験した遺族として寄り添い肩を寄せ合い涙していた。

 私は今まで強制動員被害者遺族のアボジと叫ぶ慟哭を何度も真横で見てきた。日韓条約が日本の戦後補償裁判を困難にしたため、せめて遺骨問題だけでも前進させなければと取り組みを進めてきた。しかし、大法院判決が断罪したことは植民地支配の不当性であり、軍人軍属に動員された被害者遺族も遺骨返還とともに補償を受けなければならない。動員された記録が無く、また当時の会社が現在なく裁判さえすることができない労務動員被害者と遺族のことも忘れてはならない。

 この一連の行動はNHK沖縄、琉球新報、沖縄タイムスでも大きく取り上げられた。3人の思いは沖縄県民のこころに届いたと思う。

(「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会 上田慶司)

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