2019年11月22日 1601号

【天皇制の闇、大嘗祭/安倍一派はなぜこだわるか/「特別な国」意識に“神”が不可欠】

 新天皇の即位に関する一連の行事も一通り終わった。その最後の締めくくりが、11月14日夜から15日未明にかけて行われた「大嘗祭(だいじょうさい)」であった。すでに指摘したように(本紙1598号)、即位パレードで演出したのが天皇制の「光の部分」とすれば、「大嘗祭」はぬぐいがたい「闇の部分」である。今回は、この「闇の部分」のもつ危険性をあらためて明らかにしよう。

本質は「神になる儀式」

 天皇「一世一代の秘儀」と言われている「大嘗祭」の目的はどこにあるのか。それは、誰も見ることができない秘儀を通して、新天皇がその祖先とされる「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」と交わりを結ぶことを目的とした儀式である。

 戦前の民俗学者、折口信夫はこの秘儀の本質が「天皇が神と一体となり」「神となること」にあるとの見解を発表した。前回の「大嘗祭」の前、さすがに宮内庁は“天皇が神になる儀式ではない”と折口説を否定した。

 これはゴマカシにすぎない。現に、戦前の国定教科書はこう書いていたのである。「大嘗祭は……大神と天皇とが後一体におなりあそばす御神事であって、わが大日本が神の国であることを明らかする」ものである(『初等科修身四』1943年)。

 これは戦前のたわごとではない。東京オリンピック組織委員会の会長として「大活躍」中の森喜朗が内閣総理大臣だった際に、「日本の国はまさに天皇を中心としている神の国である」と発言(2000年5月)し、大きな問題になったことがある。

 戦前の「神国日本」という妄想を引きずって、日本は「特別な国」だと思いたがっている人たちが今でもいるのである。「特別な国」の根拠は、ひとえに、日本と日本国民の統合の象徴である天皇が、神を祖先とする「神の子」であることに求められている。だから、そういう人たちにとって、「大嘗祭」を厳かに、そして大々的に執り行うことは絶対に必要なのである。

憲法違反は明らか

 この秘儀の反時代的非合理性を薄めるために、「大嘗祭」は飛鳥時代から続いている文化的伝統行事だという説がマスコミ等で振りまかれている。政治的宗教的意味はなく、目くじらを立てるほどのことではない、というわけである。これも嘘である。

 「大嘗祭」がかくも大規模に行われるようになったのは、明治新政府成立後最初の代替わりとなった「大正」天皇の即位時からである。つまり、天皇制国家の確立以降のことなのだ。戦前の天皇制国家は、あきらかに政治的意図をもって、「大嘗祭」を大々的に「再興」したのだと言わねばならない。

 だが、今回もこの秘儀は、「前例にしたがって」膨大な国費を投入して大々的に執り行われた。「前例」は、戦前の「神道国家」体制に合わせて作られていることを考えれば、「前例にしたがう」ことは許されないはずである。

 たった一晩で壊してしまう「大嘗宮」の建設に、政府は16億3千万円を予算計上し、「大嘗祭」関連行事全体に、24億4千万円を計上した。

 当然のことながら、この予算計上に対して、前回と同様に違憲訴訟が起こされている。この措置が、政教分離を定めた憲法に違反すると訴えた原告は300人に上る。

 どこからどう考えても、天皇家の私的、宗教的行事である「大嘗祭」に「公的性格」などない。それに「公費(宮廷費)」をあてがうことには、前回訴訟に対する大阪高裁判決(1995年)でさえ、次のように述べざるをえなかった。「大嘗祭」が「神道儀式の性格を有することは明白」であり、これを「公的な皇室行事として宮廷費をもって執行したことは、国家神道に対する助長、促進行為として、政教分離規定に違反するとの疑義は否定できない」。原告らは「実質勝訴」として上告せず、判決は確定した。

天皇家からも異議

 「大嘗祭」への経費支出について、今回は天皇家の側からさえ疑義が出たことは異例である。昨年11月、秋篠宮が、「大嘗祭」は天皇家の私的行事であることを踏まえ、「国費ではなく、天皇家の私的生活費の『内廷費』を充てるべきだ」と発言したのである。

 ここで「国費」と呼ばれている「宮廷費」も「内廷費」も、ありていに言えば税金から出ており、広い意味では公費である。だが、どちらの費目を充てるかで、「大嘗祭」が国の「公的行事」であるか、「私的行事」であるかを分けるのである。

 多額の税金投入に対する国民の反発を懸念した秋篠宮の(おそらく幾度かの)宮内庁への提言にもかかわらず、安倍と(神道政治連盟国会議員懇談会を含む)その仲間は、これを無視して、あくまでも国の「公的行事」として「大嘗祭」を行った。

 なぜそこまでこだわるのか。それは、日本が「特別な国」であることを保証している最後の一線を守るためである。 メディアが大はしゃぎした即位パレードに比べ、「大嘗祭」は目立たない儀式だが、憲法の原則が公然と踏みにじられる事態を見過ごしてはならない。      (T)



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