2019年11月29日 1602号

【非国民がやってきた!(319)国民主義の賞味期限(15)】

 国民主義から逃れ、身を引き離し、清算し、克服するために、私たちはどのような手立てを有しているでしょうか。

 実は1990年代にすでにこの問いをめぐって議論がなされました。例えば、戦後責任論を展開した哲学者の高橋哲哉(東京大学教授)はその一つの範例を提示しました。

 高橋哲哉の戦後責任論は、1990年代に大きな歴史的問題として浮上した日本軍性奴隷制(慰安婦)問題や、中国・重慶での反日暴動といった諸問題を取り上げ、ある日突然、亡霊のように甦る戦争の記憶にいかに向き合うのかを論じました。

 東西対立、冷戦構造が崩れて、ようやく発せられたアジアの戦争被害者の声に、私たちはどのように応答すべきか。ユダヤ人大量虐殺を否定する歴史修正主義や、台頭する新たなナショナリズムを鋭く批判し、アジアの民衆との信頼関係回復のために戦後責任を問い続けたのです。

 これまで聞き取られることのなかったアジアの被害者たちの小さな声を聞き取り、その呼びかけに応答すること、レスポンシビリティとしての責任を果たすことは、自分の属する国家がかつて侵略し、破壊したアジアの諸国民、民衆との信頼関係を回復し、新たに作り出す行為だと、高橋は指摘しました。そうであれば、これは被害者側だけでなく加害者側にとっても、けっして「否定的」であったり「抑圧的」であったりする行為ではなく、むしろ「肯定的」で「歓ばしい」ものになるはずだというのです。

 記憶・亡霊・アナクロニズムのからまりあう問いに応答するためには、他者からの問いを正面から受け止めるとともに、自らの立ち位置を明確にしなければなりません。

 そこで高橋は、アジアの被害者との関係で加害者たる日本国家の側にいる自身の応答責任を登記します。ここでは日本国民の一人としての責任が意識されます。

 これに対して、文芸評論家の加藤典洋(明治学院大学教授・当時)は、アジアの被害者に先んじて、日本軍兵士の弔いこそが真っ先になされなければならないとしました。日本国民の一人としての責任を言うのであれば、あの戦争を戦って斃れた日本軍兵士に、残された私たちは負債を負っているはずだというのです。

 加藤と高橋の間で交わされた「論争」――論争と呼ぶには実は一度も論点がかみ合わなかった論争――にここで立ち入る必要はないでしょう。多くの論者が論争に介入し、あるいは後に回顧していますが、論点はズレていく一方でした。ここで確認しておきたいのは、加藤も高橋も日本国民の一人としての責任を、それぞれ異なる意味ではありながらも、いちおうは共有していたことです。

 というのも同時期に私たちの前には、教育学者の藤岡信勝(東京大学教授・当時)の「健全なナショナリズム論」が提示されていました。藤岡のナショナリズム論は、イラク戦争の現実を前にした帝国主義国家の国家利害に基づく戦争の追認に発して、国家主義、軍国主義、帝国主義を区別することなく、個人を国家に埋没させる議論でした。日本軍国主義にも言い分はあったと戦争責任を否定し、ついには戦争と戦争犯罪を美化する論理を構築していきました。

 高橋は、一方で加藤の議論を批判すると同時に、藤岡の議論をも批判する両面作戦を遂行しました。この関係構造の中での議論であったことを忘れて、加藤・高橋論争だけを振り返るのでは論争の意味を見定めることはできません。

 こうして「健全な国民主義」の理路が見えてきます。「健全なナショナリズム」を唱えた藤岡は戦争責任の否定にたどり着きました。日本軍兵士の弔いを優先した加藤は、戦争責任をひたすら先送りました。加藤の論理は靖国の闇の中に限られることになります。

 藤岡と加藤を批判した高橋は、アジアの被害者の呼びかけに応答するために、ひとまず、責任を内在させた国民主義を再構築しようとします。

 これに対して「私は国民という属性を有するだけではない。女性であり、研究者であり……といったさまざまな属性があるのであって、国民として責任を取るナショナリズムに与(くみ)することはできない」という頓珍漢な感情的反発も登場しました。

 高橋は「日本国民」という属性を最優先したわけでも、本質論的に実体化して捉えたわけでもありません。アジアの被害者に応答するには、加害国たる日本国家の構成員としての立ち位置を再確認する必要があると指摘したのです。「加害と被害の関係構造」を踏まえた議論です。被害者が女性であれば、加害側の男性としての応答責任。被害者が何らかの「障害者」であれば、加害側の「健常者」としての応答責任。

 「加害と被害の関係構造」の下で、ひとまず日本国民としての責任を引き受けることが、国民主義の隘路を突き破る必然の道行きだというのです。1990年代の高橋の応答責任論は2010年代には「犠牲のシステム論」として展開されることになります。

<参考文献>
高橋哲哉『戦後責任論』(講談社、1999年)
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