2019年12月06日 1603号

【安倍在職8年と新基地建設強行 オール沖縄の民意は屈しない 平日の辺野古大行動も640人】

「最も強硬で冷淡」

 安倍首相の在職日数が11月20日で憲政史上最長となった。NHKニュースは連日連夜、安倍政権の「功績」を称える忖度(そんたく)報道を行った。しかし、沖縄は違う。安倍政権が「復帰後の歴代政権で沖縄に対し最も強硬で冷淡な姿勢をとってきた」と評した(11/21琉球新報)

 安倍首相は、所信表明演説や施政方針演説などことあるたびに「沖縄の皆さんの心に寄り添う」との言葉をちりばめた。ところが、その直後に「辺野古が唯一の解決策」と臆面もなく繰り返す態度に、県民の怒りはマグマのように蓄積し、そして爆発した。

 県民をないがしろにしてきた安倍政権の通算7年11か月は、沖縄にとって、翁長雄志前知事を先頭にした「オール沖縄会議」を生み出すきっかけともなった。安倍首相が誕生し暴走を重ねることへの憤りの中で、現在の県政与党を中心とした辺野古新基地阻止のオール沖縄体制が築かれ強固になった。それほど安倍は沖縄県民を徹底的に愚弄し、いじめ抜いてきた。

民意無視 約束も反故

 第1次安倍政権下の2007年3月、沖縄戦の「強制集団死」をめぐる教科書検定問題が表面化した。米軍の捕虜になるな、捕まる前に自害せよ≠ニの日本軍による強制を記した教科書の内容を削除するよう検定で圧力を加えたことに県民は一斉に反発した。

 同年9月、政治的立場を超えて「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が宜野湾市で開催され、過去最大の11万6千人が集まった。この県民大会の先頭に立ったのが、当時那覇市長であった翁長さんだ。自民党沖縄県連の幹事長をつとめた翁長さんと並んで、県連顧問で県議会議長だった仲里利信さんが県民大会実行委員長に就任した。安倍政権が誕生し沖縄戦の真実の改ざんまで押し付けてきたことに、自民党県連の最高幹部らが一斉に反旗を翻し始めた。

 2012年12月第2次安倍政権が発足。安倍は「普天間基地の危険性除去のために辺野古移設を確実に進める」と明言した。前民主党政権が「辺野古移設計画の見直し」「最低でも県外」と迷走≠オた挙句、結局辺野古に戻ってきた経緯を揶揄(やゆ)し、強行を正当化した。沖縄防衛局は、新基地建設強行に向け、やりたい放題に突っ走り始める。

 防衛局は民主党政権下でも2011年12月28日仕事納め後の未明、環境影響評価書を県庁守衛室に積み上げて提出という非常識を行ってきた事実がある。だが、安倍になると、当時の仲井眞弘多(ひろかず)知事を東京の病院にわざわざ入院させ、連日のように官邸との密談が行われ、安倍はついに2013年12月27日、埋め立て承認申請を受理する承諾書を手にする。この時、安倍と仲井眞は、辺野古埋め立てを県が承認する際の「普天間飛行場の5年以内の運用停止」「オスプレイの県外配備」という条件を確認した。安倍は「政府として全力で取り組む」と明言し、県民にアピールしようとした。しかし、今ではそんな話はどこにも出てこない。自らの約束を反故(ほご)にしてはばからない。

 2014年12月、辺野古新基地建設阻止を掲げた翁長知事が誕生すると、安倍は会談要請をことごとく拒否し、最初の話し合いは5か月後。民意を背にした翁長知事に浴びせた一言が「辺野古への移転が唯一の解決策だ」だった。

 今年2月、県民投票で改めて新基地反対の民意が示される。その結果に基づき政府に要請した玉城デニー知事に対し、安倍は「普天間飛行場の危険性はもはや先送りできない」と、圧倒的投票結果さえ平然と無視したのである。

第3木曜 ゲート前に

 11月21日、オール沖縄「辺野古県民大行動」が平日実施となって初めての第3木曜日。640人が集まりテント村は人であふれた。「世界平和アピール七人委員会」(1955年湯川秀樹らで結成されてた知識人による平和団体)メンバーも激励にゲート前を訪れた。委員の一人、慶応大学名誉教授の小沼通二さんが「30年前、冷戦も終わり、ベルリンの壁もなくなった。この基地のフェンスも必ずなくなる」と訴え。県民投票を実現する会代表をつとめた元山仁士郎さんは午後の七人委員会主催シンポジウムで「投票結果がふみにじられた。日本は本当に平和憲法や民主主義を大事にしている国なのか」と憤った。

 台風27号の影響で、ときおり激しい雨風が打ちつけるが、座り込みは整然と続けられた。「新基地建設絶対反対」「美(ちゅ)ら海を壊すな」とゲート前でシュプレヒコールが続く。しかし、安倍政権―警察権力は抗議する市民を排除し、コンクリートミキサー車や大型トレーラーなど106台が基地への入構を強行した。

 これ以上の安倍暴政を許してはならない。  (N)





ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS