2019年12月06日 1603号

【新・哲学世間話(13)萩生田発言が助長する「身分格差」】

 内閣の不祥事が次々と噴出するなかで、大学入試への英語民間試験の導入に関して、萩生田文科大臣が口にした「身の丈に応じて」努力という発言も、ずっと昔のことのように忘れ去られようとしている。

 だが、この「身の丈」発言には、単に受験機会の不平等などの問題にとどまらない、看過できない重大問題が含まれている。

 「身の丈」とは直接的には「身長」のことだが、萩生田の言う「身の丈」が、受験生それぞれの「経済的格差」や「居住地の格差」を指しているのは、話の文脈上明らかだ。

 その格差に応じて、恵まれている者は受験に有利になり、恵まれていない者は不利になるが、それは当然のことではないか。家庭の経済力や居住地の差によって、1回数万円もする英語民間受験を何度でも受けられる生徒とそれがかなわない生徒がいても仕方ないことであり、「世の中」はそんなものなのだ―。萩生田はそう言っているのである。現に彼は、その不公平さを批判するのは、「予備校に通っている」生徒を「ずるい」と言うのと同じだと発言している。

 すると、この発言は、そもそも人には置かれた「分」というものがあり、それぞれが「分相応」の働きをする(あるいは、それに応じた権利を享受する)しかないのだ、と主張するものに他ならない。

 「分相応」とは元々の意味では「身分相応」ということである。「身の丈」の差から生じる格差を容認する萩生田は、暗に「分相応」=「身分相応」の権利の格差を容認している。

 「分」やら「身分」という言葉が(そして「身の丈」という言葉も)生きていたのは、封建制身分社会の時代だ。フランス革命で生まれた「人権宣言」が、身分制の廃止、人間の等しい自由と平等、機会均等の原則を宣言して以来、「近代社会」では、さまざまな格差を説明するのに「身分」をもちだすことは絶対に許されない。だから、「近代社会」で「分」やら「身分」という言葉を使うのは、恥ずべきタブーとされてきた。

 萩生田にはこの感覚がまったくない。だから「身の丈」などという言葉が、何のためらいもなく出てくるのである。

 近年、「上流社会」と「下流社会」とか、「上級国民」とかという言葉が無神経に使われるようになっている。それは、さまざまな分野で経済格差の「身分格差」化が進行していることを示唆している。正規労働者と非正規労働者の格差が「身分格差」に、労働者の権利と自由の格差に広げられつつある。

 萩生田発言の反動的な危険性は、この流れを容認、助長し、曲がりなりにも維持されてきた受験における機会の均等原則を「分相応」論によって形骸化しようとした点にある。

   (筆者は元大学教員)
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