2019年12月13日 1604号

【非国民がやってきた!(320)国民主義の賞味期限(16)】

 1990年代に、過去の侵略戦争や植民地支配の被害者の訴えを受け止める応答責任を軸に戦後責任論を展開した高橋哲哉は、その後、沖縄の米軍基地問題や福島第2原発事故問題をめぐって「犠牲のシステム」論を打ち出しました。

 沖縄の米軍基地問題とは、辺野古基地建設に象徴されるように、日本の安全を守るためと称して、面積が1%に満たない沖縄に74%の基地を押しつけている実態を指します(数値は2012年当時)。「本土」の世論調査では、圧倒的多数の「国民」が防衛のために日米安保が必要だとする一歩で、危険な迷惑施設を歓迎はしません。沖縄への押しつけをやむをえないとしています。日本の安全を米軍に委ねると同時に、危険を沖縄に押しつけることによって「本土の安全」を守るという、本土の日本人には何一つ責任がないかのような立論です。

 沖縄は歴史的に見ても、琉球併合、同化政策、沖縄戦、天皇メッセージ、米軍統治という負担を余儀なくされました。その沖縄に米軍基地負担が押しつけられているので、高橋は「沖縄の犠牲なしに戦後日本は成り立たなかった」「これは今なお植民地主義が継続しているということではないのか」と言います。

 「沖縄が植民地のように支配されているということは、そこに植民する側、植民地宗主国が存在するということである。沖縄を植民地化している宗主国はといえば、これは当然、日米安保体制を構築して沖縄に米軍基地を置いている日米両政府、日米両国家だということになる。」

 沖縄への基地押しつけの事実を容認し、日米安保体制を支持しているのですから、植民地主義は日本国家のものであり、同時に日本国民のものと言わざるを得ません。高橋は、野村浩也(広島修道大学教授)の「無意識の植民地主義」論を援用して、ここに「犠牲のシステム」の典型的な構造を見出します。「犠牲のシステム」とは次のように定式化されます。

 「犠牲のシステムでは、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている。」

 「日本人」が自らの利益を守るために恒常的制度的に「沖縄人」に犠牲を押しつけています。それゆえ植民地主義者でありたくない者は、沖縄米軍基地問題に正面から向き合うべきだと、高橋は主張します。

 ここで確認すべきことは、「日本(日本人)を守る」と称する本土の国民が守ろうとしているのは、「沖縄(沖縄人)を除外した国民(日本人)」にすぎないことです。「沖縄(沖縄人)を含んだ国民(日本人)を守る」という主張を提示している論者はほとんど見当たりません。沖縄県民を排除して日本国憲法を制定した国民ですから、最初から本土の安全だけを考えていたのです。

 それゆえ議論の枠組みは戦後責任論と同じであることが判明します。「慰安婦」問題について「加害と被害の関係構造」の下で、ひとまず日本国民としての責任を引き受けることが、国民主義の隘路を突き破る必然の道行きだと考えたのと同様に、米軍基地問題についても「加害と被害の関係構造」の下で、マジョリティの国民(本土の日本人)としての応答責任を果たすべきだ、ここから出発しなければならないというのが高橋の論点です。

<参考文献>

高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)
高橋哲哉・前田朗『思想はいま何を語るべきか』(三一書房、2018年)
野村浩也『無意識の植民地主義』(御茶の水書房、2005年)
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