2019年12月27日 1606号

【非国民がやってきた!(321)国民主義の賞味期限(17)】

 これまで見てきたように、高橋哲哉は応答責任や犠牲のシステムという視角から、日本軍性奴隷制、靖国神社問題、福島原発問題、沖縄辺野古基地問題に挑み、鋭い論陣を張ってきました。

 高橋の議論の特徴は、応答責任論に明らかなように、他者の呼びかけにいかに応答するかという関心に貫かれています。他者からの問いに応答する主体の在り方を追求してきました。それゆえ高橋は、植民地や占領下の被害者の声に耳を傾け、原発被災者や基地被害に喘ぐ人々の訴えを正面から受け止めてきました。

 ところが、高橋の応答責任論の有効性に疑問を投げかけたのが、佐藤嘉幸と廣瀬純です。佐藤と廣瀬は「高橋哲哉は、2012年刊行の著作で琉球と福島を同時に論じ、両者に同形の『犠牲のシステム』を指摘しているが、『犠牲にされるもの』を眼前にし『責任』を自覚するよう市民に求める高橋の議論の有効性を、私たちは、少なくとも琉球と福島については認めない」と断じます。

 応答責任論や犠牲のシステム論そのものをどう見るかはともかくとして、琉球と福島に関する議論としては、その有効性に疑問があるというのです。佐藤と廣瀬の論点は次のように鮮やかに提示されます。

 「市民による反ファシズム運動(マジョリティによる民主主義回復闘争)と、琉球人による反米軍基地闘争、福島住民による脱被曝/反原発運動(マイノリティによる人権闘争)との間にも、利害の不一致、あるいはより根底的には、利害の対立があると言わねばなるまい。琉球民族や福島住民は、今日のファシズムと闘っているのではなく、近代市民社会、民主主義と闘っているのである。」

 琉球民族や福島住民は近代市民社会と闘っている。民主主義と闘っている。これは何を意味するのでしょうか。佐藤と廣瀬の立論をいま少し追う必要があります。

 佐藤嘉幸(筑波大学准教授)はフランス現代思想、権力理論を専攻し、著書に『権力と抵抗』『新自由主義と権力』(ともに人文書院)があります。近代市民社会に貫徹してきた権力の秘密を追跡し、その現代的形態にも挑んだ権力論は、来たるべき抵抗の理論として練り上げられます。フランス文学研究の田口卓臣(中央大学教授)との共著『脱原発の哲学』(人文書院)では、原発/被曝/被災/復興問題を根源的に問い直しています。また、ジュディス・バトラー『自分自身を説明すること』(月曜社)等の翻訳があります。

 廣瀬純(龍谷大学教授)は映画論、現代思想を専攻し、著書に『シネキャピタル』(洛北出版)『アントニオ・ネグリ――革命の哲学』(青土社)『暴力階級とは何か』(航思社)があります。ネグリの『未来派左翼』(NHKブックス)等の翻訳があります。『週刊金曜日』誌上の長期連載「自由と創造のためのレッスン」におけるグローバルな民衆闘争の分析に学んできた読者も多いことでしょう。

 「ドゥルーズ=ガタリの政治哲学」との副題をもつ共著で、佐藤と廣瀬は『アンチ・オイディプス』(1972年)『千のプラトー』(1980年)『哲学とは何か』(1991年)の読解に取り組みます。3冊の書物でドゥルーズ=ガタリが提示した3つの革命の戦術とは何でしょうか。

<文献>
佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命――ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社、2017年)
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