「なぜ人を殺してはいけないのか」――今、論壇はこの「愚問」に振り回されているかのごとくである。『文藝春秋』十一月号は、「『なぜ―』と子供に聞かれたら」という特集を、『文藝』冬季号は、「なぜ人を殺さなくてはならないのか、なぜ自分を殺してはいけないのか」との特集を組んでいる。かく言う筆者も、数回前のこの欄で、この問題に触れたことがある。
今回偶然に特集の重なりというかたちで突出した、この問いをめぐる問題は、実は数年前から議論されている。
発端は例の神戸連続児童殺傷事件の衝撃に発している。この事件をめぐってはある高校生が、そもそも「なぜ人を殺してはいけないのか」と投げかけた問いに対して、作家・大江健三郎は「そんな問いは発するべきでない」と答えた。哲学者・永井均は、大江の答えに「なぜその問いを立ててはならないのか」と憤慨し、「どうしても殺したければやむをえない…これが本当の答えだ」と書いた。評論家・小浜逸郎は、こういう問いの流行現象に嫌悪感を示しつつ、本当は「なぜ人を殺してはならないのか、と人間は考えるようになったのか」を問うべきなのだ、と語った。
最近では、児童文学者・村瀬学が、「人殺し」が起こるのは人が「人間」を「人間」と見なせなくなるとき起こるのだから、かの問いはやはり立てかた自身が誤っているのだと説いている。
改めて言うまでもなく、かの問いは「愚問」なのである。だから大江のように一蹴することもできる。だが、問いを投げかけている子どもたちが無邪気にも「真剣」なのである。この点にこそ、問題の病理性の根源がある。
だから、一番常識に適った大江の解答は、病気の人間を前に健康の尊さを説いているように響く。おそらく永井の苛立ちもここにある。一種のショック療法とも言える永井の解答は、逆説的に「生の重み」を教えようとしている。
小浜と村瀬は、一見問題をずらし、回避しているように見えるが、実は人間の生の本質的「共同性」を示唆して、「人間とは何なのか」という根本問題から解答を紡ぎだそうとしているように思える。
解答はそれぞれ、各論者たちの「人間―人生」観を透かし彫りにしているようで、興味深い。これらの解答にはとても及ばないが、筆者の考えはすでに述べたことがある。読者諸氏は、この問いにどう答えようとするだろうか。
一度じっくり、自分の子どもの顔を思い浮かべながら、考えてみたらどうだろうか。
(筆者は大学教員)