2001年03月23日発行682号

金景錫(キム・ギョンソク)の『我が人生 我が道』第23回

【提訴】

自筆題字

 東京では民宿に泊まり、兄貴の消息を調べるために国会図書館に行きました。図書館の職員に強制連行関係の資料を尋ねても「そんなものあるかな」との返答。そこで当時の発行物を片っ端から検索していくうちに、なんと日本鋼管での私たちのストライキのことが載っている『特高月報』昭和十八年四月分を見つけました。

 「『半島技能工の育成』と題するパンフレットに端を発する紛議」と書かれている。懐かしい事件がよみがえってきました。

 さっそく私はそれをコピーし、書店で『一人でも訴訟はできる』という本を買って宿に帰りました。帰国が迫っていたので、訴状だけでも出して帰りたいと思った。一晩中かかって、訴状らしきものを書き上げました。

 兄貴にしても私にしても、当時は日本人として日本の法律の下で犠牲になった。それが国籍条項でいつの間にやら外国人扱い。作った訴状は、補償せよという内容ではなく、日本人と同様の扱いにせよというものでした。

 私は、訴状を出してその後どうなるかも知らなかった。日本に行ったら映画『アリランのうた』の監督である朴壽南(パク・スナム)という人に連絡してみたらいいと聞いていたので、電話をしました。「訴状を出してから帰ろうと思う」と知らせたら「それは大変なことだ。企業相手に日本では最初の裁判を起こそうとしているのだから、ちょっと待ってくれ」と。

 急きょ集まってきたのが田中宏さん、内海愛子さんたちでした。日本鋼管訴訟を支える会の事務局長をやってくれた谷川透さんともそこで出会いました。

 一九九一年九月三十日、私は手書きの訴状を東京地裁に出しました。六十歳を超えてからの闘いの始まりでした。

 以来、谷川さんは財産も投げうって支援してくれた。日本人が朝鮮人を支援して国家に盾突くというのはどうも納得いかない話。私は谷川さんに「なぜ私たちを支援するのか」尋ねたことがあります。すると「それは私の哲学ですよ」といった答えが返ってきた。自分の問題として受けとめていることに感心しました。

東京地裁座り込み click
写真:東京地裁座り込み

 今でも脳裏に焼き付いているのは、東京地裁で判決が出た時のことです。私は、抗議して裁判所の建物の中で座り込んだ。そこで死んでもかまわないと思いました。「日本人の支援の方には迷惑をかけたくないので出ていって下さい」。谷川さんはその時病気でしたが、「死なばもろとも」と、一緒に座ってくれた。忘れられません。

(筆者は太平洋戦争韓國人犠牲者遺族会会長。題字は自筆)

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