2001年05月25日発行690号

【インドネシア・ルポ コトパンジャン・ダムは今 民衆の生存権を奪うODA】

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図:インドネシア地図

 インドネシアは、日本のODA(政府開発援助)の最大の被供与国。そのODAで建設され、「開発と環境のモデル」と外務省が誇るコトパンジャン・ダム(一九九六年完成)で、住民が補償を求める裁判に立ち上がり、日本の「援助」に怒りの声をあげている。その実態はどうなっているのか。四月二十九日から五月三日、ODA問題に取り組む鷲見(すみ)一夫新潟大教授やジュビリー関西、平和と民主主義をめざす全国交歓会代表などのインドネシア調査行動に加わった。二回にわたって同行記を掲載する。

 五月一日、赤道直下の西スマトラ州ブキチンギから、約一時間半。支援のNGOメンバーの運転する車は、頓着なくセンターラインを越し、トラックなどを次々と追い抜いていく。少々スリルを味わいながら見る車窓からは、豊かな熱帯の農村が広がる。バナナがあり、ココナッツの樹が並ぶ。田植えしたばかりの水田のすぐ隣に、刈り入れ前のたわわに実った稲穂。二期作はあたりまえという。

水没の村に住民が

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インドネシアのコトパンジャン・ダム
写真:インドネシアのコトパンジャン・ダム

 車はでこぼこの旧道に入って、ダム貯水池に下りていく。湖上に突き出した枯れ木、半分水没した家屋―ここは、ダム建設で住民が立ち退かされた旧タンジュン・バリ村だ。

 ところが水没したはずの村に住民がいる。それも一人や、二人ではない。ダムの水位低下にともない、危険を冒して再定住地(移住地)から戻ったのだ。その一人ラシッドさん(49)は「移住させられた二百家族のうち、百家族が元の家に戻って来た。補償もなく、水もない移住地では生きていけない」と語る。

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原告のラシッドさん(左)
写真:原告のラシッドさん

 コトパンジャン・ダムの水位は建設時の予定を大きく下回った。二万三千人が強制移住させられたが、実際は移住の必要もなかった人々が多数含まれている。「ここ旧村には学校がなく、子どもが学校にいけない。昼間だけ仕事に降りてきている住民もいる」と無責任な生活破壊に憤るラシッドさんは、政府に補償を求める裁判の原告でもある。

飲めない井戸

 ちょうど雨季の終わりで、水は住宅ぎりぎりに迫っている。それでも元の村に帰ってこざるをえない。では、再定住地とはどんな所なのか。同日午後、再定住村リンボ・ダタを訪れた。

 丘陵地帯の熱帯林を焼き払って切り開かれた村は、随所でラテライト(赤土)がむき出し。「熱帯の表土を剥ぐとこうなる。雨が降ると坂道は濁流。作物などできるわけがない」と鷲見教授が説明する。政府の提供した住宅は物置同然で、住民たちは「豚小屋だ」と怒る。わずかの補償金を使って別の住宅を建てる場合も多く、空家が目立つ。

 重大なのは水の問題だ。日本のOECF(海外経済協力基金)の名が仰々しく書かれたコンクリート製の井戸があった。赤茶けた泥水が底のほうに溜まっている。水浴用のバスルームには、アリだらけの木切れが転がっている。使われた形跡はない。

 日本の援助で作られた、この飲めない井戸は計二十四か所もあるが、住民は自分たちで別に井戸を掘るか、近くの小川まで行くしかない。住民の生活・生存権を全く無視した移住先なのだ。

ゴム園提供の真相

 十年前、政府は、立ち退きの条件として補償・住宅提供などに加え、住民の現金収入源として一家族二ヘクタールのゴム園を与える約束をした。その「ゴム園」が眼前に広がる。数百ヘクタールにわたって熱帯林が伐採され、草原となっている。だが、ゴムの木は道路周辺にわずかにあるだけ。ほとんどは、植えられて一年半もたたない小さなものだ。「収穫ができるまでに、七〜八年かかる。道路のそばにあるのは、調査のときに見せるため」と、住民支援NGOのアルメンさん(38)。

 最も早く移住した村の一つ、シラル・コト・ラナー村でも同じ話が出る。長老ヌルデンさん(60)は「政府は二ヘクタールの土地を約束したのに、実際は一ヘクタール。ゴムの九〇%は失敗し、一戸あたり二十〜四十本では生活できない。食料提供も補償もなくなり、村人はマレーシアなどに出稼ぎに行くようになった」。一見こぎれいな住宅も、出稼ぎという犠牲でようやく維持されているに過ぎない。

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住民は「豚小屋」と呼ぶ
写真:住民は「豚小屋」と呼ぶ政府提供住宅

 「政府が生産費用を出すという約束期限はこの五月。守らなければ、州政府にデモで訴えていく」とヌルデンさんは意気高い。”このままでは生きていけない”―住民の忍耐は限界にきている。

癒着で生まれたダム

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政府は約束を守っていない
写真:政府は約束を守っていない

 五月二日、ダムサイトに着く。高さ五八メートル、堤長二五七・五メートルは、決して大きくはない。「建設費は三百億円だが、日本でもこんなダムなら十億もかからない。しかも、物価・人件費はけた違いに安いインドネシアでの話だ。そもそも発電量一一四メガワットもの電力需要など、どこにもない」と鷲見教授。

 コトパンジャン・ダムは、そのスタートから日本企業とインドネシア政府・スハルトファミリーの癒着で生まれた。建設プランは東電設計とJICA(国際協力事業団)。スハルト政権下で日本のODAの窓口となったギナンジャール鉱業相(現在、汚職事件で起訴・収監中)が橋渡しをして、九一年、ゼネコンのハザマやスハルト一族企業などが受注し、三百億円のODAを食い物にしていった。

 十か村、二万三千人を立ち退かせるという社会的影響、希少動物スマトラ象の生息地であるという環境問題もあり、ダム反対世論は日本にもODA中止を求めた。これに対し、外務省は「立ち退きは強制でなく自由意志で」「環境問題への配慮」などの「要請」が満たされたとして、資金供与を強行し着工。九六年にはダムが完成し、翌九七年貯水が開始された。

日本の責任を問う

 そして今、外務省が「人権・環境に配慮したODAのモデルケース」と宣伝に使う象徴的存在となっている。だが、でたらめなODA宣伝は、再定住村の現実と住民の話の前では何の説得力もない。

 豊かな村の生活は破壊された。補償は打ち切られ、収入の約束は破られた。村人の生存権が危機に瀕している。

 また、スマトラ象も捕獲しきれず、他のトラやバクなどは放置され死んでいった。再定住地のための森林伐採や樹木を取り除かないままの貯水など大規模な生態系破壊は、土砂流出、湖の富栄養化などの問題を引き起こしている。

 裁判に立ち上がった住民やNGOは、援助の名でこの破壊を推進してきた日本の責任をも問い始めている。「日本政府も事実を見て、責任をとるべき」(アルメンさん)「日本で裁判があればいつでも行く」(ヌルデン長老)。私たちに笑顔で語られた言葉だが、意味は重い。(中条)

       《つづく》

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