小泉純一郎首相が靖国神社参拝に執念を燃やしている。「戦没者に敬意と感謝の念を表す。それは当然の行為ではないか」「よその国から批判されて、なぜ中止しなければならないのか」等々、小泉は感情論を押し立てることで、国内外の批判を振り切ろうとしている。いまなぜ靖国参拝なのか。
靖国参拝の動きを批判する平和遺族会連絡会の西川重則事務局長(7月7日・東京)
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新たな英霊サイクル
首相就任以来、小泉は「八月十五日には靖国神社に参拝する」と言い続けてきた。近隣諸国から再考を求める声や批判が出てもお構いなし。逆に「総理大臣小泉純一郎が参拝する、それだけだ。とやかく言われる筋合いはない」と開き直るありさまだ。
小泉はなぜ靖国参拝にこだわるのか。首相就任後の会見で彼はこう語っている。「万が一の時、命を捨てる覚悟で訓練をしている集団に敬意をもって接する法整備、環境を作るのが政治の責務だ」。
この発言、直接には有事立法の制定や集団的自衛権の行使を意図したものだが、小泉の言う環境作りの中には靖国神社の問題が重要な柱として含まれている。
かつて中曽根康弘首相が「国のために倒れた人に対して、国家が感謝を捧げる場所がなくして、誰が国のために命を捧げるか」と叫び、戦後初の靖国神社公式参拝に踏み切ったのは有名な話だ。
つまり、国民を精神面から戦争に動員していくためには、国家が強制した死を「名誉の戦死」にすりかえ、後に続くことを決意させる「戦意高揚装置」が必要なのだ。
戦前の靖国神社は「戦死→慰霊・賛美→教育→徴兵→戦死」という「英霊サイクル」の要となる施設であった。周辺事態出動などによる自衛隊員の「戦死」が現実の問題となってきた今、その今日的な復権を小泉はもくろんでいるのである。
戦争責任の全否定
小泉は言及を避けているが、靖国神社は戦争で亡くなった人すべてを「慰霊」しているのではない。合祀対象は明治維新以降の軍人・軍属が基本であり、空襲被害者などの民間人は除外されている。
「君のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいにお祭りをするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは…ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません」
これは戦前の教科書に記された靖国神社の説明だ。軍人・軍属を特別扱いすることで、天皇や国家のために死ぬこと(殺すこと)を誇りに思わせ、あとの者に続けと教える−−そうした「靖国思想」の核心がここにある。
戦後、靖国神社は国家との関係を断たれ、単立の宗教法人となった。とはいえ、「国事に殉ぜられた人々を万代に顕彰する」という神社の性格に変わりはない(靖国神社社憲より)。また、東条英機元首相ら十四人のA級戦犯を「昭和殉難者」として合祀するなど、侵略戦争を正当化する施設であり続けている。
そんな場所に時の首相が参拝し「感謝の意を捧げる」ことは、日本は戦争責任を認めていないと全世界に公言することを意味する。アジアの民衆が激しく反発するのは当然のことなのだ。
アジアの厳しい視線
「今日の日本の平和と繁栄は、自らの命を犠牲にした方々の上に成り立っている。私は戦没者に対して心をこめて敬意と感謝の誠を捧げたい」と小泉は言う。
もっともらしく聞こえるが、ここには国民を無謀な侵略戦争にかり出し、殺人行為を強要したあげく生命を奪ったことに対する国家としての謝罪の念などカケラもない。
「戦没者=今日の繁栄の礎」という位置付けは、侵略戦争の責任をあいまいにしてしまう。そして、現在の「平和と繁栄」を守るために命を投げ出すことを求める現代版「靖国思想」へと転化する。これが戦争国家づくりに向けた思想攻撃でなくて何であろう。
国内外の批判を緩和するために政府内で検討されているという「国立戦没者墓苑」構想にしても同じことである。侵略戦争の反省やアジアの戦争被害者への謝罪が欠落した追悼施設は、容易に「第二の靖国」と化すに違いない。
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靖国神社には約二万一千人の朝鮮人軍人・軍属が合祀されている。植民地支配の被害者をその加害者とともに、加害国の宗教であった国家神道の「祭神」として、加害国の元首であった天皇に忠誠を尽くした者として祀る−−被害国の死者に対するこれ以上の冒涜行為があろうか。
靖国は戦争における加害と被害の関係を覆い隠し、一切の戦争責任を帳消しにする役割をはたしているのだ。
六月二十九日、韓国の元軍人・軍属と遺族が靖国合祀取り下げを求めて裁判を起こした。小泉が靖国参拝に固執すればするほど、アジアの民衆の怒りは広がっていくだろう。彼らは靖国参拝の背後に日本の再侵略策動を見ているのである。 (M)