2001年08月24日発行702号合併号
寄稿

【自然とダム反対がつないだコトパンジャンと木頭村】

コトパンジャン・ダム裁判原告代表団キャンペーンツアーを成功させる会 河田菜摘さん

 七月十九日から約二週間、各地でインドネシアへの日本のODA(政府開発援助)を告発したコトパンジャン・ダム裁判原告代表団。七月二十一日には、同じくダム反対を闘う徳島県木頭村(きとうそん)を訪れた。同行した河田菜摘さんに交流を寄稿していただいた。


写真:河田菜摘さん

 「海外で日本が犯しているODAの間違った援助」と言っても、一般的には身近に捉えにくく、具体的に何が問題なのかが世間に広がりにくいところがある。しかし、要らないダム建設というのはなにも海外だけの話ではなく、むしろ日本国内でもここ最近、長野の田中知事の脱ダム宣言などの効果もあってか、あらためて問題とされてきている公共事業のシンボルのようなものであり、地元住民と政府の間で繰り広げられてきた闘いには相通じるものがあるはずである。

 七月二十一日、インドネシアの西スマトラから来たヒゲのオジサン三人、そして彼らと私たちの交流の橋渡しをしてくれる通訳のオニイサンを含めた総勢七人で、徳島と高知の県境近くの木頭村へと車を走らせた。クネクネ曲がる山道を登って行くと河が現れ、さっそく大きなダムが。それを越えてまだ行くと、民家が現れ、なくなり、また現れ…そうこう一時間以上も山を走った頃だろうか、ようやく目的地に到着。

期待以上の歓迎ぶり

畑について説明を受ける原告代表団
写真:山に囲まれた農地で、村民から畑について説明を受ける原告代表団

 自然あふれる小さな山村である木頭村では、長い間、ダム建設推進派と反対派の住民たちの葛藤が繰り広げられてきた。その歴史は七〇年代のダム最盛期に遡る。那賀川総合開発のダム建設計画が突然発表されて以来、県議や政府のさまざまな圧力や運動妨害にあいながらも、水没予定地区の住民を中心に、ダム建設反対の運動や村議会リコール運動などが行なわれ、九三年には藤田(前)村長が日本で初めてダム反対を唱える村長として当選した。そして昨年、国はついに木頭村村民たちの村に賭ける粘り強さに負け、ダム建設事業中止を正式に発表することとなったのである。

 村に着くと、さっそく前村長の藤田さん、そして大阪から木頭村に家族で移り住んでもう二年という玄番さんが私たちを親しみやすい笑顔で迎えてくれた。ダム建設と闘う人たちや自然を守ろうと運動する人たちがこの木頭村を訪れることはめずらしくないらしく、二日間の滞在のうちにこちらの期待以上の充実した企画を用意してくれていた。

 公民館の裏に住む八十一歳のおじいさんに村の昔の話を聴いたり、ダム反対派の村会議員さんたちとお話したり、昼は婆連と呼ばれるお母さんたちが作ってくれたおにぎりに川魚のアメゴの炭焼き、そしてあちこちの家庭から届けられた自家製トマトやきゅうりをみんなで食べたり。木頭村に流れる那賀川の下流に建設された小見野ダムや水没した地域も案内してもらった。

 インドネシアからの代表団たちは村民の方の話を真剣な面持ちで聞きながらも、その一方で、東京の都会を脱出して自然にあふれた山村にやってきて、ようやく緊張がとれリラックスした表情を見せ、村民の皆さんとの交流を楽しんでいるようだった。

経験や思いを共有

村人と交流
写真:二十数人の村民とインドネシアから来日した原告代表団がロの時型にテーブルを囲んで交流

 二日目の夜、私たちは座談会を設けてもらった。コトパンジャンでの現状を木頭村でダムと闘ってこられた方々に知っていただき、経験や思いを共有するのが目的だ。過疎化にともなって、今ではお年寄り住民の圧倒的に多い木頭村だけに、参加者の多くが木頭村での長年のダム闘争を経験しておられ、西スマトラでのダム建設とその後にまつわる闘いを自分たちの闘いと重ねて聴いておられたのではないだろうか。「日本は国内にダムを作るところがなくなってしまって、今では海外にダム輸出をしているわけだ」と藤田さんは言う。そう、まさに、迷惑・無駄遣い公共事業の海外進出なのである。

 座談会の最後に、代表団のひとりはこう感想を述べた。「政府の圧力にも負けず、力を合わせて闘ってこられた木頭村の皆さんに心から敬意を示したい。我々の住む土地にはもうダムが出来てしまっているので、そのうえで今後村民の生活を守っていくための運動を繰り広げていきたい」村が水没し、移転させられる村民にメリットはなく、かつ騙し的な方法で企業だけを儲けさせるダム建設に苦しめられてきたのは、日本国内でも国外でも、いつも社会的に小さく弱い村民たち。しかし、その村民たちが驚くべき強い団結力で大きい政府に対抗する図がそこにはあった。

ホームページに戻る
Copyright FLAG of UNITY