俺が三十一歳の昭和三十七(一九六二)年、いよいよ弁天橋電車区に足を踏み入れた。それから人材活用センターに放り込まれた昭和六十一年まで二十四年間、そこにいることになる。
弁天橋電車区の管轄は、東京・横浜からの玄関駅である鶴見と京浜工業地帯の中心地である扇町を結ぶ鶴見線。他に海芝浦支線、大川支線があった。鶴見線は朝夕のラッシュ時は四両編成で走るが、乗車率は二〇〇%くらいになる。ラッシュが終わる昼間は分割して二両で走った。
電車運転士はみんな高校を出て鉄道の勉強をして、二十二歳くらいで運転士になる。そこに十歳ちがう三十歳過ぎのおっさんが見習いで来る。見習いには指導助役や指導員、教導運転士がつき、実際に教える。俺が入った時は区長も助役も指導員も二の足を踏むというか、身構えたもんだ。教導運転士は金子という人で、背のスラッと高い、いい奴だった。鉄道に入ったのは俺が早いが、年は俺より一つくらい上だった。
当時、弁天橋の電車は木造車で茶色の電車だった。運転台には運転士の椅子しかないから、自分の椅子を持っていって、脇に座る。四、五日は見ているだけ。信号やポイントの位置、速度を切り換えるノッチの入れ方、ブレーキをかける所を沿線の家や木を見て覚える。木造車のブレーキは長い距離をかけないと利かない。覚えるのが大変だった。それを覚えても、乗客の数や雨が降ったり天候によってもみんな違う。
一通り覚えて二週間目に初めてブレーキを持たされる。実際の営業線でお客を乗せ、運転技術の見習いをするんだ。最初のころは手が固くなってハンドルさばきもできなくなってしまう。電車がホームにうまく止まらない。鶴見線はホームが短いから電車が飛び出しちゃう場合もある。その時はバックさせる。今度はバックし過ぎて。前に行ったり後に来たりして、しっちゃかめっちゃか。鶴見線の沿線は職工さんが多い。「なんだ、この運転士。もたもた運転しやがって」とどなられるが、何の反論もできなかった。
ホームの停止位置に止まるかどうかは一種の闘いみたいなもの。人活裁判で証人に立った時「停止目標に電車の先端がピタリと行ったときは、ざまあ見ろって気持ちになる」と言ったら、裁判長が「証人、ざまあ見ろとはどういうことですか」と聞いてきた。そんなこと一般の人には分かんないよ。運転士の誇りなんだ。
応急措置訓練というのもやる。何か起きたとき、全部直さなくても電車が動けるように訓練する。応急措置をして電車区まで運んで、そこで検修の人間が直す。電車は電気の配線が多いから、断線したり、摩擦不良や接触不良を起こすことがある。この訓練を何回も繰り返した。
(国労闘争団員)