ロゴ:生きる 佐久間忠夫 2002年06月21日発行743号

第40回『居流し』

 運転の合間はホームにある運転詰め所で食事をしたり、一服する。泊まり勤務もあった。夜の十一時頃、終電が終わって次の日、午前五時に運転が始まるとすれば、電車の出庫点検は一時間くらいかかるから四時に起きる。

 夜の八時や九時に終わって朝四時という勤務もあった。朝の勤務までは拘束時間じゃないから、仕事が終わって食堂で飲んだり、外に酒飲みに行ったりした。このことを弁天橋では「居流し」と言った。翌日の朝までは自分の時間だから、酒を飲もうが何をしようが構わない。そんな時、世話役がいて飯を作ったり、酒のつまみを買ってきたりする。運転士には二十二歳の若い者もいれば五十〜六十歳もいる。親子くらい年が違う。そこで一緒に飲みながら、いろんな仕事の話や人生の話をする。それが勉強になったなあ。

 当局は「運転士に年寄りも熟練もない」と言ってたけど、俺に言わせれば「何、言ってんだ」と思う。やっぱり経験した者から実際に聞いて、覚えたことは多いんだ。線路だって生き物なんだから。その日によって木が倒れていたり、「雨が振れば、ここは水が出る」とか「あそこが危ないぞ」と教えてもらった。しょっちゅう大雨や大雪があるわけじゃない。何年に一度あるかないか。だから「ここを気をつけろ」って教え合うことが大切なんだ。お互いに勉強する。その雰囲気が非常に良かったね。

 今の職場では、それができないんじゃないかな。指導員に国労の運転士が聞いたりしたら、「おめえ、そんなことも知らないのか」って、それでもう減点。うっかり聞けねえよ。俺の頃は逆に、「指導員は聞かれて答えるのが商売じゃないか」とやってたわけよ。当局は、要員がいなくて指導員が乗ったりするのを嫌がった。指導員が事故でも起こせば、それこそしめしがつかないって。

 居流しの雰囲気は弁天橋だからできたのかな。小人数だから家族的なことができたのかもしれないけど。俺が分会長になったのは三十九歳だったから、俺より年上の四十代や五十代の組合員、運転士がいっぱいいた。みんな協力的だった。居流しのようなことが日常的にできていたことが分会作りの種になったと思う。

 山北線(御殿場線)の上大井という所から通っていた人だけど、炊き込みご飯が上手でさ。遠いから居流しが多かった。アサリや野菜を入れたり、うまい醤油ご飯の味を出すんだ。よく作ってもらって食べたよ。みんなは冷めると臭いが出て嫌だと言ってたけど、俺は好きだった。そういういい人がいたんだ、仲間に。楽しかったね。

  (国労闘争団員)

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