前回登場したA子の「親には言われへん、絶対に。言いたくないねん」の言葉には、親の立場なら、ドキッと、あるいはカッとなりそうです。
このような言葉の後には、「かわいそうやん、心配させるだけや」とか「うちの親は、こういうのん耐えられへん、言うても無駄や」といった表現が続きます。
私 「かわいそうって? 知らされへんほうが、なんか、かわいそうやけど。後になって、わかったら、もっともっと心配かけることにならへん?」
A 「なんか悪い…こんなことで心配させたら。それに、うちの親、すぐ興奮するし、うろたえよるし、めちゃめちゃな感じになるねん。言うても、混乱させるだけや。そんなん、かわいそうやし…」
その後、親子でどんな会話がかわされたのでしょうか。数日後、母子でやってきました。
母 「もう、ほんまに、腹立つん通り過ぎて…恥ずかし…。それで、今日、(中絶を)してもらえますねんね? とにかく、はよ、したってください」
私 「そういうわけにはいきません。いろいろ検査もして、後日入院になります」
母 「学校も行かんと何してるんや、て思ったら、こんなことになって。なんしか、はよすまして、元の体にしてもらわんと。このままでは、この子もかわいそうやし。今度は懲りて、ちゃんと学校行くようになりますやろ」
この親子には共通点があります。子どもは、親に本当のことを言ってびっくりさせるのは「かわいそう」だから、何も知らせないのが「やさしさ」だと思っている。親はただただ処置を早く終わらせることが、子どもを「かわいそう」な状態から救う「やさしさ」だと思っているようです。
相手を傷つけたくないので黙っている、詮索をしない。それが「やさしさ」という価値観は、この親子だけではなく、世間にまん延しています。でも、それは互いへの思いやりに満ちた関係でしょうか。何かが欠落しているように思うのです。
私には、子どもから一大事件を知らされず、相談する相手として信頼を持たれていないことのほうが、かわいそうに思えます。一刻も早く処置を終わることは、親の不安や心配を解消するには最優先事ですが、本人にとっては、それだけでは、根本的解決にはなりません。
毎日の張り合いを見いだせず、とにかくどこかに逃げ道を求めてしまう子どもたちの何と多いことか。次号は、この辺について書いてみましょう。
(筆者は、大阪・阪南中央病院産婦人科医師。文中の人物はプライバシー保護のため設定を変えています―編集部)。