前回とりあげたA子、B男のような、若いカップルの妊娠例は、決して例外的な珍しいものではありません。ごくありふれた、典型的なパターンとも言えるくらいです。これらのカップル、親子のやりとりにみられる人間模様は、現在における人間関係の特徴を如実に見せてくれます。
避妊の知識がないわけではありません。でも本当に無防備に妊娠してしまいます。セックスの行為だけが、二人にとっては重要で、結果はどの時点でも関心の外にあります。
妊娠すると、具体的な生活条件をかえりみず、しばしば、産んで赤ちゃんがほしいと言います。まるまるとやわらかい赤ちゃんを抱く(抱かれる?)ことの「やさしい」感触を求めているかのようです。
将来を見通して、自分がどんなふうに家庭や社会で個性的に生き、人生を豊かに開いていきたいかに、思いを馳せることはありません。すこし先の生活すら見えない、期待できない、不安と寂しさの中で、一瞬の「しあわせ時間」を赤ちゃんに求めることで、息つぎをしているのでしょうか。
こういう、刹那的な人間関係の中で展開される「やさしさ」とは何でしょう。それは相手を混乱させたり、悩ませたり、耐えて待つ苦しい時間をともなうものではありません。
むしろ、人間関係における様々な葛藤をしりぞけるために、ひたすら連続した接触と声かけの表面的な「ここちよさ」に終始します。やさしさを求めるもとにある、寂しさ不安の原因には迫ることはないので、本当は決して心の安らぎは得られないにもかかわらず…。
これは若い世代に特有の傾向ではありません。子どもに対する大人たちのまなざし、接する態度も、近頃は本質に迫るものにはなっていません。子どもの持つ困難に、時間をかけ、一緒に辛抱して、それを解きほぐすことをしたり、子どもが力をつけるための側面的支援に、あまり関心がないようです。
大人たち自身が、様々に混沌とした社会環境の中に立ちすくみ、隣り合う人間関係との共同作業や支え合いの中で、困難に立ち向かうことができずにいます。そうした大人の無力感を子どもたちは見通してしまっているのでしょう。
最近のカップルや親子に見られる見当はずれの過干渉や冷たい無関心は表裏一体の関係にあります。奇妙なやさしさは冷たさの裏返しなのです。力を合わせて困難に取り組み、乗り越えていく人間関係の中に生まれる、本当のやさしさをとりもどしていけたら、と願います。
(この項終)
(筆者は、大阪・阪南中央病院産婦人科医師)