放射能汚染・経済制裁そして空爆。湾岸戦争後も犠牲を強いられてきたイラク社会は、いままた攻撃の危機にさらされている。イラクを訪れた国際市民調査団(ジャミーラ高橋団長)が見たものは、あたりまえの生活を取り戻そうと努力する人々の姿と、それを妨害する日本政府に対する不信感だった。
激減した貿易
「ニーハオ、ニーハオ」
通りすがりの人から声をかけられる。「ヤパーニ(日本人)」と応じると「オウ、ヤパーニ。グッド」と答えが返った。首都バグダッドでも、南部の都市バスラでもこんなやり取りを何度もした。
爆撃の跡が生々しいアメリア・シェルター(12月15日)
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湾岸戦争(一九九一年)までは、多くの日本企業が進出していた。イラクの対輸出・輸入それぞれ四位であった八九年には、イラク在住日本人は五千人を越えていた。今は、外務省の記録では五人だけだ。
「日本企業は、日本が造った工場プラントのスペア部品の納入を拒んでいる。しかたなく韓国や他の国から代替品を入れて操業している。日本とイラクの間には問題はないはずなのに、米国に従っていては日本にとってもマイナスでは」。市民調査団の受け入れ窓口になったイラク平和友好連帯協会の代表アル・ハシミさんはそう語った。
二〇〇一年の輸出相手国一位は米国。日本は輸出入のどちらにも、上位五位までに顔を出していない。日本企業は経済制裁に従い、取引を控えているという。
なぜイージス艦か
アラビア湾から二十キロさかのぼったところに、コール・アル・ズベール港がある。かつて日本企業が建設したものだ。接岸する貨物船の中に「源江」「広州」の漢字が読みとれるものがあった。経済制裁下では、輸出入のすべての品目が国連の監視下にある。港にあった国連事務所はいかにも小さかった。
「経済制裁で二千五百のプロジェクト、総額八十億ドルの契約が凍結されている。食糧・薬・農産物・水・通信・電気など生活に不可欠なものばかり。その上、二百五十ページにわたる禁輸品リストが作られている。イラク国民に対する罰、嫌がらせだ。経済制裁の影響で子どもたちが一か月五千人も死亡している」
とハシミさんは語気を強めた。まさしくスロー・ジェノサイドだ。「経済制裁の停止や禁輸解除に力を貸してほしい。イラクは以前のように自分の力で豊かな社会を築ける」と強調した。
イラク社会を破壊した湾岸戦争の戦費六百五十億ドルのうち百三十億ドルを負担したのが日本だった。そして今、日本から送られた船は貨物船ではなく、イージス艦だった。
バグダッドの病院で、イージス艦派遣について感想を聞いたとき、医師は「日本政府は優れた性能の兵器を送ってきた。結局それは、普通の人々、女性や子どもを苦しめることになる」と答えた。
なぜイラクが爆撃されるのか。なぜ日本はそれに加担するのか。原爆を経験し、復興した日本に対するイラクの人々の親近感は強い。日本が加害国として立ち表れていることに、イラクの人々は「政府と国民は違う」と口では言いながらも、戸惑い苛立っている。そう感じた。
増え続ける犠牲者
橋や家。湾岸戦争の破壊跡は、あちこちに残っている。
バグダッドにあるアメリア・シェルターに行った。湾岸戦争の時、避難した市民を米軍が狙い撃ちにした所だ。一見、博物館を思わせるシェルターは、外壁部の損傷はほとんど見られない。内部だけを破壊するピンポイント爆撃にあった。
地下の壁には、犠牲者の皮膚や頭髪が熱で壁に張り付いていた。一階の壁には、子どもを抱く母親の姿がうっすらと残っていた。爆風で壁にたたきつけられた跡だと説明を受けた。
シェルターは、その跡を残したまま祈念館として保存される。犠牲者はイラク政府発表で四百八人、近隣住民からの情報によれば千二百人を下らないという。いずれにしても、湾岸戦争の犠牲者はこの施設だけではない。
放射能汚染・経済制裁、そして空爆。戦後の犠牲者は今も増えつづけている。そして重苦に耐えながらあたりまえの生活を取り戻そうと努力している人々がいる。そのすべての犠牲者に思いを馳せ、米国の戦争犯罪と加害国日本を問わねばならない。
シェルターの暗闇の中でそう思った。 (T)