ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2002年04月25日発行785号

第1回『アフガン侵略とイラク侵略は現代国際法への挑戦』

 本連載は「国際法を市民の手に」と題している。いささか「非常識」なタイ トルなので、タイトルについての言い訳から始めなくてはならない。

 第一に、そもそも国際法は市民の手に届くようなものだろうかとの疑問があ る。国内法でさえも市民には遠い存在なのに、なぜ国際法を市民の手になどと言 えるのだろうか。最初の難関だ。

 世界がグローバル化しているからといって、直ちに国際法を市民の手にと言 えるわけでもない。一人ひとりの市民は資本の論理に身を委ねることしかできな いし、それでいいという意見すらある。世界資本の論理が法則的に貫徹するので あれば、これに抵抗することなど愚の骨頂ということになる。

 確かに資本と軍事と情報のグローバル化が世界を壟断しているが、世界は本 当にグローバリゼーションの論理だけで動いているだろうか。これからもグロー バリゼーションの論理が貫徹するだろうか。こう問いを立て直せば、国際法をい ったん潜り抜ける必要があることを理解できるのではないか。世界のグローバル な再編成という現象は実は一部の私的利害に貫かれている。仮象としてのグロー バル化の正体を明るみに晒すには、普遍的な立脚点が求められる。アメリカのイ ラク空爆の隠された真因の一つである石油支配の欲望を糾弾するには、両者を対 比しつつ、いずれが真に普遍的であり、いずれが単に私的利害の追求であるかを 判定することだ。

 第二に、国際法は国家が作ってきたものであり、国際法の主体は国家なので はないか。市民が国際法について発言したり、国際法のフィールドで活動する余 地はないのではないか。

 確かに近代国際法は主権国家と国家群によって形成されてきた。

 しかし国際法の原則を考案し、紡いできたのは国家だけではない。国連機関 においても、国家とは別に、さまざまのNGOが活躍してきた。国際法を国内裁 判所で活かすための裁判にも、さまざまの実践がある。今やNGOの創意工夫を 抜きに国際人権法の実践は想定できないし、国際人道法においても個人やNGO の役割は否定しようがない。

 第三に、市民が国際法の主体として登場すると言っても、実は市民が国際法 に取り込まれることに過ぎないのではないか。

 「人道的介入」という名によるNATOのユーゴ爆撃が思い起こされる。国 際法の危険な側面である。国際法の論理の一つひとつを吟味せずに「国際法を市 民の手に」と言ってはならないことも明らかである。市民、国家、国際社会の三 つのレベルでの議論を踏まえなくてはならない。

 アフガン侵略とイラク侵略という二つの「事件」は、単に国際法違反という だけではなく、現代国際法に対する意図的な挑戦と破壊である。国際人権法、国 際人道法、安全保障に関する国際法のすべてに対する挑戦である。その倒錯した 論理を批判的に解剖するには、市民社会の疎外された形態の一つとしての法現象 を、さらに二重三重に疎外されざるをえない国際法の水準で確認しつつ、内在的 にも超克するしかない。

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