前回は世界人権宣言の条文の見出しを紹介したが、これを見て、「おやっ、日本国憲法の基本的人権と似ているのではないか」と思った人もいるかもしれない。法の前の平等、裁判所の公正な審理、財産権、思想の自由、表現の自由、参政権、労働権、教育権など多くの点で両者は似ている。もちろん人権宣言はフランス人権宣言以来の発展を踏まえているから、どの国の憲法の人権条項もある程度は似ているが、世界人権宣言と日本国憲法ほど似てはいないだろう。
1948年12月10日の世界人権宣言と、1946年11月3日の日本国憲法−−どちらも第二次大戦の反省を踏まえて作成された文書である。世界人権宣言前文の次のような表現を見れば、ますますその共通性を感じることができるだろう。「人権の無視及び軽蔑が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらし、また、人間が言論及び信仰の自由ならびに恐怖及び欠乏からの自由を享受する世界」。「人間が、専制及び抑圧に対して、最後の手段として反逆に訴えることを余儀なくされてはならない」。同じ時代精神を反映した世界人権宣言と日本国憲法だが、半世紀の試練を経て、世界も日本も、いまだに、というよりも今こそ人権侵害が横行しているのも、残念ながら共通といわなければならない。
もっとも、こうした共通点と同時に、両者には相違点も見られる。
第1に、国籍の権利は、日本国憲法にはない。日本国憲法は国籍の要件を法律で定めるとするに過ぎず、個人が国籍の権利を有するという発想には立っていない。日本政府が露骨に国籍の権利を否定・侵害してきたことはいうまでもないが、一般の市民も国籍が権利であるとは考えていないようだ。
第2に、休息・余暇権である。労働時間の合理的な制限や有給休暇が世界人権宣言に明示されていることを知っている日本社会構成員は少ないだろう。過労死する社会は国際人権法違反の社会である。
第3に、文化的権利である。これには「社会の文化生活に参加し、芸術を享受し、並びに科学の進歩及びその利益にあずかる権利」が含まれる。芸術の権利が世界人権宣言に謳われていることもほとんど知られていないのではないか。
本連載の主題である市民の登場という点でも、世界人権宣言と日本国憲法は共通する。天皇主権の大日本帝国憲法のもとでは、個人は「臣民」としてしか登場できなかった。天皇制警察と天皇制軍隊が社会の編成を規定していた。そのもとで人権抑圧は当然の国家政策として推進された。思想を処罰する治安維持法体制がその極致である。日本国憲法はそうした時代への反省として個人の尊重を掲げた。
世界人権宣言という形で国際法の世界に人権主体としての個人が登場したのと、日本国憲法という形で日本法の世界に人権主体としての個人が登場したのが同じ時期だったのは決して偶然ではない。