2003年06月20日発行793号 ロゴ:占領下のイラクを行く イラク戦争被害調査 豊田 護

第2回 クラスター爆弾こそ大量殺戮兵器

 「大量破壊兵器の廃棄」−米大統領ブッシュがイラク爆撃を正当化するために、こじつけた理由だった。全くのデタラメであることが、米英両国議会でも追及され始めた。イラク戦争被害調査チーム(リーダー・フォトジャーナリスト広河隆一さん)が現地で見たものは、米英軍こそが無差別大量殺戮兵器の使用者である事実と、その被害に苦しむイラクの人々だった。       (豊田 護)


イラク戦争被害調査チーム訪問地
地図:イラク戦争被害調査チームの訪問地を記した地図。クウェート国境近くおイラク南部から北部へ、ウムカスル、バスラ、ナシリヤ、シャトラ、ナジャフ、ヒッラ、カルバラ、バグダッド、キルクーク、アルビル、モスル、そして、ヨルダンのアンマン

隣の一家は全滅した

 バグダッドから南へ約百五十キロメートル。ナジャフの町では三月二十六日、激しい戦闘が起こった。クウェート国境から侵入した米英軍が首都侵攻を前に、本格的な抵抗を受けた。

 「たまたま、戸を開けたところミサイルが二発飛んできた。この地域は、全部爆弾でやられた。二十六人が殺された」

 メヒディさん(61)は爆撃の様子を語った。メヒディさん自身も左足を失い、車椅子生活だ。目はサングラスで保護されていた。

腹部にクラスター爆弾の散弾を受けた青年(ナジャフ)
写真:いすに腰掛け、衣服をめくりあげる青年。下腹部には5針以上長さ20センチもありそうな大きな縫い跡がある。

 戦争被害調査チームが訪れたアル・カラマ地区は、三十メートルほどの道路に面した住宅街。この街にクラスター爆弾が使われたのは三月二十七日の深夜だった。通りに面した家の壁には、いたる所に弾痕が見られた。

 「隣の一家は全滅した。正直者のいい家族だった」。調査チームの取材を知って、隣近所からどんどん人が集まってくる。

 「なぜもっと早く来なかったんだ」−メヒディさんの息子サラーハさんが激しい口調で訴えた。クラスター爆弾の証拠を米軍に消されてしまうとの思いからだった。

体内から取り出された小球
写真:手のひらに広げられた散弾。直径2-3ミリほどのベアリングの球のような粒が30粒ほどある

 一人の青年が、メヒディさんの家にあらわれた。着ていた服をたくし上げ、腹部に残る手術後を見せた。手には直径二〜三ミリの小球が三十粒ほどのっていた。手術で体から取り出したものだという。クラスター爆弾の散弾に違いない。いくつかは、まだ体の中に残っている。

 住宅地が面する通りには、クラスター爆弾の残骸が残っていた。道の中央に転がっていた蓋のような部品に「二七〇」と数字があった。親爆弾に含まれる子爆弾の数かも知れない。一発の爆弾が二百発以上もの爆弾に分散し、なおかつそれぞれが細かい散弾を撃ち放つ。殺傷能力は着弾点から、半径数百メートルにも及ぶ。無差別大量殺戮兵器だ。

 さらに問題なのは、子爆弾の一割近くが不発弾として残ることだ。今回のイラク攻撃では、千五百発のクラスター爆弾が使われたという。単純計算でも不発弾は数万発にもなる。実際、戦闘が終わってから、多くの子どもたちが犠牲となっている。

街のいたるところに残る爆弾の破片
写真:道路に転がる爆弾の破片。子供が一緒に写っている
クラスター爆弾の子爆弾
写真:地面に落ちた釣鐘状の金属の塊

なぜ民間人を殺すのか

 道路脇の植樹帯の中に子爆弾の一部を見つけた。不発弾かどうか、確かめるすべはない。ただ、青年が見せてくれた小球がぎっしり詰まっているのが見えた。見れば、あちこちにいろんな形状をした爆弾の残骸があった。死後硬直したロバの死体もあった。爆撃の時にやられたそうだ。

 通りを軍用車が、何かを広報して通り過ぎた。聞けば明日夕方四時から、あたりをクリーン・アップするという。不発弾の除去なのか、あるいは証拠隠滅のためなのか。サラーハさんの訴える意味が分かった。すでに、これまでにもクリーン・アップ作業がされていたのだろう。

 なぜこの住宅地が狙われたのか。「イラク兵が通ったという人もいるが、理由はまったくわからない」。メヒディさんはそう答え、「(米軍は)この悲劇を持って帰れ」と怒りをあらわにした。

 遠巻きに見ていた一人の女性が、米軍に「なぜ民間人を殺すのか」と抗議した時の話をした。クウェート人通訳を通じて聞かされた言葉は「すべてを破壊する」だった。        (続)

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