NGOが国連経済社会理事会と協議資格をもつことを認めたのは、1946年の国連憲章71条であるから、やがて60年の歴史を迎えようとしている。 NGOを国連に参加させる仕組みを追及したのは、驚くべきことに、国連準備段階におけるアメリカ政府であった。AFL(アメリカ労働総同盟)、CIO(産別労組会議)、国際商工会議所、外交政策協議会、カーネギー国際平和財団などのロビーを受けたアメリカ政府が、当初は予定されていなかった国連憲章71条を提案したのである。国連における独自の地位を追求しようとしたソ連主導のWTUC(世界労働組合会議)の意向も反映して、国連憲章71条が成立した。これに基づいてNGO協議制度がつくられていく。
もちろん、半世紀の国連の歴史においてNGOの活動が無条件にすんなり進展してきたわけではない。東西対立が激化した時期には、米ソの確執はNGOをも巻き込んだ。早くも1950年には、国連総会に参加するはずのWTUCメンバーがアメリカによって入国拒否されて国際問題となっている。また、朝鮮戦争における国連軍の戦争犯罪を追及・解明しようとしたIADL(国際民主法律家協会)は、もっとも古い専門家NGOだが、1950年、アメリカに都合が悪い事実を調査・公表したため、協議資格を剥奪されている。1967年に資格が再度認められた。この時期は冷戦の対立が激しく、西側諜報機関から資金援助を受けたといわれるICJ(国際法律家委員会)は協議資格を認められ、東側と見られたIADLは資格を剥奪されるなど、国際政治の対立がそのまま反映した代理戦争状況であった。
また、1960年代には、経済社会理事会自身が開発途上国の開発問題に対応できなかったこともあって、NGOの協議資格も十分に機能しなかったといわれる。そこでNGOは経済社会理事会よりも下部の各種委員会に出て、議論の最初の段階から影響力を発揮しようとした。国連事務局も1970年代にNGOの国連活動への参加機会の増大をはかった。国連事務局はNGOの多様性や多元的な能力に着目した。
1970年代以後、国連は各種の世界会議を開催した。1972年の人間環境会議(ストックホルム)、1974年の世界人口会議(ブカレスト)、1975年の国際婦人年世界会議(メキシコシティ)、1976年の人間居住会議(バンクーバー)などの流れである。世界会議においても準備段階からNGOの多様な参加形態が模索され、大きな成果を獲得した。NGOは、世界会議における機能を果たすとともに、NGOフォーラムを通じて国際市民社会の形成を試みた。世界会議へのNGO参加は1980年代以降も飛躍的に増加し、1992年の世界女性会議(北京)や2001年の人種差別反対世界会議(ダーバン)には数千のNGOが参加するようになった。
今日では、NGOは国連における問題提起や、政策形成、政策実施・履行・モニター、人権条約のモニターなど多面的に参加し、活動している。世界会議、経済社会理事会、国連事務局、人権委員会、人権高等弁務官事務所、難民高等弁務官事務所、世界保健機関など、NGOの存在なしに現在の国連活動は成立しないといって過言ではない。次回から、そうしたNGO活動の実際例を筆者の経験に即して紹介していくことにしたい。
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