「自由・民主主義」―そんな言葉を口にしながら占領軍はイラク民衆の自由を奪い、虐殺・虐待、人権侵害を繰りかえしている。戦争犯罪は戦闘下に限られるものではない。一度は「解放軍」と迎えた人でさえ、今では「早く出て行け」と口にする。バグダッドの街で怒りの声を聞いた。(豊田 護)
「ブッシュは百日たてばすべて解決すると言った。だが、なぜいまだにこんな事が続くんだ。ブッシュは、民間人には危害を加えないと言っている。だがどうだ。息子は米兵に殺されたんだ」
亡くなったアハメッドくん(16)の父親ファウジさん(40)は、そう語り出した。
事件が起こったのは、八月二十八日の午後二時から三時ごろだった。アハメッドくんは自宅近くでバイクに乗っていた。そこで米軍のパトロールと出くわした。兵士はアハメッドくんを狙って、機銃掃射した。アハメッドくんはバイクを乗り捨て、近くにあった車の影に身を隠した。銃撃が止んだ。様子をうかがうために頭を出したところ、二発の銃弾が頬と首に当たった。
殺された兄の写真を貼ったプラカードを掲げる弟と妹(左の二人)
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「米兵は息子を手当てすることを許さなかった。銃で威嚇し、誰も近づかせなかった。息子は三十分以上、放置され死んだ。すぐに手当てをすれば助かったかもしれない。これが、米軍が言う自由であり人権であり、民主主義なんだ」
全部で七十発の銃弾が発射されたという。父親は三十四発を回収した。その一つを差し出して見せた。
「息子は電気技師だった。私がエアコンの扱い方などを教えた。近所の人から修理を頼まれても、貧しい人たちなのでお金はとらずに直してあげていた」
四人兄弟姉妹の長男だったアハメッドくん。その人となりを語る父親の表情に深い悲しみと怒りを感じた。
ファウジさんの自宅は、バグダッド市の中心、ハブ・アル・シャルキ広場近くにあった。最も古い住宅地だ。家々の間には幅三メートルに満たない路地が入り組んでいる。表通りでは路側に多くのゴミがたまっているのを見かけたが、ここにはゴミ一つ見られない。地域社会の結びつきの強さを感じる。
「九月三日、私たちはデモをした。近所の人たちもみんな参加してくれた。約百五十人でシェラトンホテルまで要請書を持っていった。人々に何が起こったか知らせたかったからだ」
米軍への要求項目を書き込んだ横断幕
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ホテルでは統治評議会の閣僚会議が行われていた。アハメッドくんの写真を貼ったプラカードをつくった。”冷酷非道な米軍の犠牲者”と書いた。”罪のないイラク人の流血はもうたくさんだ”と大書された横断幕には次の要求項目を書き込んだ。
(1)殺人者に法の裁きを。(2)謝罪の表明を。(3)犠牲者の家族に補償を。(4)罪のない市民に二度と恐るべき行為を行わない確約を。
対応に出てきた米軍将校は「おまえたちにデモする権利があるのか」と言った。「ここは私たちの国だ。私の息子はあなたたちに殺された。私たちは平和的にお願いにきた。あなたがたが私たちに対しできることはないのか」と父親は訴えた。
米軍将校は言った。「私には、おまえたちを皆殺しにすることも、監獄にぶち込むこともできる」
この地域は、米軍がやってきたとき、食事を出したり、仕事の手助けをしたりした。それがこの仕打ちだ。
息子の殺害場所を示すファウジさん(9月19日)
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母親が言う。「彼らが裁かれないなら、私は、米軍をイラクから追い出すように全世界に向け訴えたい。イラクのことはイラクの人々に任せてほしい。息子ばかりでない。三日前には、三人が殺される事件があった。サダム・フセインは人を殺したが、路上や父母の前で子どもを殺すようなことはしなかった」
バグダッド市内を走る米軍の装甲車
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米軍に言いたいことはないかと弟妹に聞いた。弟のアムジャッドくん(14)は「なぜ兄さんを殺したの。どうかイラク人は誰も殺さないでほしい。僕たちは何もしていない。自分の仕事をしているだけだ。」と訴えた。妹のゴフランさん(11)は「私たちはとても仲がよかった。兄さんはお父さんと一緒に仕事に行って、お父さんからもらったお金を私にくれた。その兄さんを理由もなく米軍が殺した」と答えた。
最初は「解放軍」と歓迎した人々さえ、占領軍の実態を知るようになった。軍隊は民衆のためにいるのではない。改めて思い知らされた。 (続く)