ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2003年10月31日発行811号

第25回『アンリ・デュナンと赤十字(2)』

 1863年2月17日に発足した5人委員会は、デュナンの提案による国際救護団体の組織化を検討し、10月26日にジュネーヴで国際会議を開くことにして、各国政府に呼びかけた。

 デュナンの著作『ソルフェリーノの思い出』がヨーロッパで反響を呼び、チャールズ・ディケンズやヴィクトル・ユーゴーらが賛意を評しただけではなく、ロシアとオランダが支援を表明していた。フランス、イタリア、プロイセンなどはデュナンに勲章を授与した。このため民間団体であるにもかかわらず、5人委員会は国際会議を呼びかけることができた。

 ちょうどベルリンで国際統計会議が開かれ、医療問題を取り上げるため各国の軍医が集まることから、5人委員会はデュナンをベルリンに送り出した。デュナンの熱弁に呼応したのはオランダ軍医のバスチングであった。救護団体設立というデュナンの提案と、局外中立というバスチングの提案がここに結びつくことになった。国際統計会議はジュネーヴ会議の成功を祈る旨の決議を採択した。

 ヨーロッパから14か国の代表が集まったジュネーヴ会議で、5人委員会の提案が検討され、各国に救護団体を設立することを取り決めた赤十字規則(ジュネーヴ国際会議決議)が採択された。

 規則第1条は、各国に委員会を設置し、開戦の場合にあらゆる手段をもって軍隊の衛生に助力することとし、第5条は、委員会は戦時において当該国軍のために救護するとしている。第8条で、組織のシンボルとして、白地に赤の赤十字が採用された。赤十字発祥の地であるスイス国旗を逆にしたものである(なお、イスラム諸国では、十字軍への歴史的な感情の故に、赤新月が使用されている)。同時に採択された「希望宣言」は、交戦国が病院や救護者の局外中立を認めるよう希望するとした。

 こうして赤十字の設立が各国で進められていくことになった。しかし、救護団体をつくるだけでは十分ではない。救護者を攻撃しないことを各国に守らせなければ赤十字の活動は成り立たない。そこで、私的委員会の約束ではなく、国家間の国際条約の必要性が浮上した。1864年8月、スイス政府の招請によってジュネーヴ会議が開かれ、ジュネーヴ条約(戦地軍隊傷病者の保護に関するジュネーヴ条約)が採択された。

 条約第1条は、戦地における病院は局外中立とみなすこと、負傷者は保護することを宣言し、第2条は救護者を局外中立とした。さらに第6条は、国籍を問わずに救護すること、つまり敵の負傷者も救護することを確認した。また、重症者は本国に送還すること、軽症者であっても再び武器を取らないことを約束した場合は本国に送還することにした。

 ヨーロッパの12か国の調印によって、赤十字は国際条約の裏打ちを得た組織として存在することになった。

 アンリ・デュナンという個人の着想に始まり、ジュネーヴの市民が欧州諸国に呼びかけた赤十字を、国際社会が認知したのである。国際人道法のはじまりは、国家ではなく、市民の手によるものであったことが確認できる。

 国際人道法への新しい道を切り拓いたデュナンは、1867年、破産宣告を受けて失意のうちにジュネーヴから立ち去ったが、赤十字の思想と組織は世界に発展していった。ジュネーヴ条約といえば赤十字であり、赤十字は国連とは別な立場で人道活動を展開してきた。国際人道法の分野でも、ハーグ法と並んでジュネーヴ法が大きな位置を占める。

 デュナンは、負傷兵だけではなく捕虜の救護の必要性も訴えたが、ジュネーヴ条約には採用されなかった。ジュネーヴからパリへ移るとパリ委員会をつくって捕虜問題を提起したり、さらにロンドンへ行ってもデュナンは捕虜問題を取り上げる努力をしたが、イギリス政府の関心を引くことはできなかった。捕虜の保護は1899年の第1回ハーグ会議におけるハーグ陸戦法規慣例条約の捕虜条項によって初めて規定されることになる。

 ジュネーヴ条約群は、1899年のハーグ会議における海戦条約(ジュネーヴ条約の原則を海戦に適用するハーグ条約)、1929年の捕虜条約(捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約)、1949年の文民条約という形成と発展を示してきた。第2次大戦後、1949年にスイス政府が招請した外交会議で、これらが改正され、戦争犠牲者の保護に関するジュネーヴ諸条約として整備された。

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