日本国憲法の戦争放棄・平和的生存権の思想は、半世紀にわたって政権によってなし崩しに空洞化されてきたが、それでも日本社会の平和意識に多大の影響を与えてきた。平和運動や憲法学は世界でもまれにみる平和主義勢力を誇ってきた。日本国憲法以前と以後とでは、世界平和に関する視点の置き所がすっかり異なるのである。
近代国民国家は軍隊を保有し、戦争をする権限を持ち、現に戦争を繰り返していた。国際法の世界も、主権国家の論理で構築されていたから、国際法の領域に戦時国際法が形成されていた。戦争を回避するための方策が練られたが、それでも戦争が起きるのだから、国際法は戦争法規を手配しなければならなかった。
第1次世界大戦は、国際法における戦争観念の変化を要請した。第1次大戦以前にも、ジュネーヴ条約(赤十字条約)やハーグ条約(1899年、1907年)が締結され、戦争行為の規制は進められていた。しかし、戦争を防げなかったし、戦時における非人道的行為も防げなかった。第1次大戦への反省は、国際連盟設立につながった。国際連盟において新しい戦争規制の試みが模索された。
国際連盟規約11条は、戦争はすべての締約国の関心であるとし、16条は連盟規約に違反して軍事行動に出た国家に制裁を科すとしていた。いわば集団安全保障システムである。
同時に、連盟は軍縮を目指した。1921年の連盟総会は軍縮を議題として取り上げ、具体案を策定するための暫定混合委員会を設立した。しかし、1922年の連盟総会で、軍縮だけを進めることは防衛力が低下して自国の安全を保てないという意見が強まり、安全保障体制の確立が要請された。軍縮と安全保障体制という2本柱で戦争を規制する試みである。
そこで1923年の連盟総会に「相互援助条約案」が提出された。条約案1条は、締約国は「侵略戦争は国際犯罪である」と厳粛に宣言するとし、被侵略国への援助を規定していた。侵略戦争は国際犯罪であるという思想の表明である。連盟総会は条約案を加盟国に送付して検討を依頼した。
ところが、アメリカは国際連盟に加盟していない。ウィルソン大統領が国際連盟結成を提唱したにもかかわらず、アメリカは連盟に加盟しなかった。世界平和を問題とする以上、アメリカの動向を無視できない。連盟という史上初の試みは、アメリカ抜きの国際機関という限界の中で模索を続けていた。
アメリカでは、相互援助条約案とは別に、カーネギー国際平和財団の協力を得て、民間の国際法学者が議論を継続し、相互援助条約案に対する「対案」を作成した。これは民間の案ではあったが、連盟では事実上の「アメリカ案」として受け止められていた。「アメリカ案」では、常設国際司法裁判所による侵略の認定を提言していた。
1924年の連盟総会は、相互援助条約案と「アメリカ案」を検討したうえで、新たに「ジュネーヴ議定書(国際紛争平和処理に関する議定書)」を作成した。議定書は、戦争に代わる手段としての平和的紛争解決を提案しつつ、安全保障システムをつくることを明示していた。各国に、平和的解決の義務を持たせ、同時に軍縮を進め、違反した国家への制裁を行うという考えである。当時としては画期的な考案であったと思われる。
戦争を規制し、平和を求め、軍縮を目指す国際的な動きは、国際連盟とアメリカの橋渡しの試みとしても意義を持っていた。こうして国際法における戦争の規制が徐々に進んできたが、それでも国際法は戦争を禁止はしていなかった。国際法が戦争を禁止していない−−このことに驚いたのは、シカゴの弁護士サルモン・レヴィンソンであった。レヴィンソンはやがて<戦争の違法化>を提唱して、運動を進めていくことになる。