ジェノサイドという言葉は、1944年にラファエル・レムキンが著作『占領欧州における枢軸支配』(カーネギー世界平和財団)の中で初めて使った新造語である。
この語は、ニュルンベルク裁判の起訴状に採用され、国連総会においても用いられた。1948年の国連総会はジェノサイド条約を採択し、ジェノサイドという言葉は僅か4年で国際法上の用語としての地位を獲得した。
レムキンは、1947年の論文「国際法における犯罪としてのジェノサイド」(『アメリカ国際法雑誌』41号)において、この言葉が迅速に国際法に受容されたのは国連及び各国が言葉の意味をよく理解し、支持したためであるとしている。
レムキンは、ポーランド東部のベツヴォデネ地域の出身で、弁護士、検察官、法律学者であった。1930代には国際刑法学者として知られるようになり、「刑法典統一会議」などに報告者として参加した。
レムキンはユダヤ人であったため、ナチス・ドイツが支配したポーランドから1939年に逃亡を余儀なくされ、スウェーデンを経由してアメリカに逃れた。アメリカでは最初デューク大学、後にイェール大学に勤務した。「ジェノサイド違法化世界運動」を組織して、ジェノサイドの犯罪化にあくなき努力を行った。国連が創設されると、舞台裏でロビー活動を行い、国連事務総局の顧問としても活躍した。国家の連合体である国連の歴史において、個人のロビー活動がこれほど成功した例はないと言われる。
ジェノサイドという言葉は、古代ギリシア語とラテン語を合成した新造語である。古代ギリシア語で人種を意味する「genos」と、ラテン語で殺害を意味する「caedere」とを合成して「ジェノサイドgenocide」となった。古代ギリシア語には人種を意味する「ethnos」もあったので、レムキンは「エスノサイドethnocide」を第二案としていた。フランスでは今日でもしばしばエスノサイドという表現が用いられる。ラテン語だけで造語すると「generocide」となるが、語感がよくなかったようである。
レムキンは、ルヴォフ大学学生の時代からこのテーマに関心を持っていたという。というのも、第一次大戦時にオスマン・トルコが行ったアルメニア大虐殺の犯行者を訴追するべきと考えたからである。
当時、アルメニア人がロシアの味方をすると疑ったトルコが、アルメニア人を集団強制移送したり、武力行使により虐殺した。被害総数は不明であるが、しばしば100万規模の大虐殺と指摘されてきた。虐殺を逃れて世界各地に散らばったアルメニア人の数は、アルメニアに残った数よりも多いとも言われた(現在のアルメニア人口は380万人)。このためアルメニア人は「第2のユダヤ人」とも呼ばれる。2003年に日本で公開されたアトム・エゴヤン監督の映画『アララトの聖母』はアルメニア大虐殺を素材としている。
レムキンは1933年に第5回刑法典統一国際会議での報告において、2つの新しい国際犯罪を提唱した。「蛮行vandalism」と「野蛮barbarity」である。蛮行の罪は芸術や文化の破壊犯罪を念頭におき、野蛮の罪は無防備な人種・宗教・社会集団に対して向けられた虐殺、ポグロム、女性や子どもに対する集団虐待、人間の尊厳を損なう取扱いを念頭においていた。レムキンが依拠したのは、1933年のパレルモ会議で報告したルーマニアの法律家ヴェスパシァン・ペラの報告であったという。
アルメニア大虐殺を訴追するためのレムキン提案は国際会議で採用されなかった。レムキンは、後にナチス・ドイツの犯行が明るみに出たとき、この提案が採用されていれば、ナチス・ドイツの責任者を訴追するために使えたのにと悔やんだという。1944年の『占領欧州における枢軸支配』においてレムキンは、1933年の提案を発展させてジェノサイド゛概念を提唱したのである。