ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年01月09日発行821号

第35回『レムキンとジェノサイド条約(3)』

 レムキンの発案によるジェノサイド概念がジェノサイド条約に採用され、国際法に位置を占めるまでに、2つの中継点を経ることになった。ニュルンベルク裁判、国連総会決議、そしてジェノサイド条約へのホップ・ステップ・ジャンプである。

 連合国戦争犯罪委員会は、第2次大戦中からナチスによる戦争犯罪の追及のために調査を行っていたが、アメリカは当初は戦争犯罪法廷に積極的でなかったともいわれる。

 しかし、1945年1月のヤルタ会談には「戦争犯罪人の裁判と処罰」というメモが提出され、2月にはアメリカも積極派に転じ、6月のロンドン会議には、ハーグ陸戦法規慣例条約のマルテンス条項にも言及していた。特に侵略の罪が念頭に置かれていた。45年7月、ロバート・ジャクソン米代表は、ユダヤ人せん滅と少数者の権利の破壊を裁く意欲を示して、大虐殺atrocities、迫害、強制移送を取り上げた。ロンドン会議は、45年7月31日の修正案で、大虐殺を「人道に対する罪crimes against humanity」に代えた。45年8月8日の国際軍事法廷条例(IMT、ニュルンベルク法廷条例)は人道に対する罪を定式化した。

 45年10月、24人のナチス指導者が訴追され、史上初の戦争犯罪法廷であるニュルンベルク法廷が始まった(ニュルンベルク法廷とは別に米英仏ソによる管理委員会規則に基づく戦犯法廷なども続いた)。

 ニュルンベルク法廷条例には人道に対する罪という言葉が用いられたが、起訴状の中にはジェノサイドという言葉を用いた例が登場した。

 ゲーリンクに対する起訴状は「特定の人民の人種や諸階級、国民、人種、宗教集団、特にユダヤ人、ポーランド人およびジプシーを破壊するために、一定の占領地域の人種や国民の集団、民間住民をせん滅すること」を「組織的なジェノサイド」と表現していた。このことを後に戦争犯罪委員会は「まったく新しい国際犯罪を創設しようとした」と位置づけている。

 46年8月、ニュルンベルク法廷結審に際して、フランス検事のシャンプティエ・ドリブは「ヒトラー主義の誕生以前のキリスト教の時代にはとうてい考えられなかったモンスター犯罪であり、ジェノサイドという言葉がそれを定義した」と指摘している。イギリス検事のハートリー・ショークロスの最終論告でも「ジェノサイドはユダヤ人やジプシーのせん滅にとどまらない。さまざまな形で、ユーゴスラヴィア人、アルザス・ロレーヌの非ドイツ人、低地諸国やノルウェーの人民にも適用された」と述べている。

 ニュルンベルク法廷判決の中ではジェノサイドという言葉は用いられていないが、判決は実質的にジェノサイドとは何かを示すものとなったと理解されている。レムキンも後に「ニュルンベルク法廷に提出された証拠が、ジェノサイド概念に完全な支持を与えた」と述べている。「ユダヤ人問題の最終解決」に象徴されるナチス犯罪の総体がジェノサイド概念の必要性を支えた。

 もっとも、この段階ではジェノサイドの法的概念は確立していなかった。ニュルンベルク法廷の実践を踏まえて、レムキンはさらに法概念の構築に向かうことになる。次のステップは国連総会である。

(参考文献)この項は、特にウィリアム・シャバス『国際法におけるジェノサイド』(ケンブリッジ大学出版、2000年)に依拠している。

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