ジェノサイド条約の審議は国連総会第2会期と第3会期に行われた。レムキンは事務局の顧問格として、国連総会でも粘り強いロビー活動を展開して、条約実現に向けて努力を続けた。
国連総会第2会期では、ジェノサイド条約そのものに対する異論が登場した。ハートレー・ショークロス(イギリス)は、ジェノサイドが国際法上の犯罪であることはすでにニュルンベルク判決で認められているから、改めて条約をつくる必要に疑問を差し向けた。というのも、もし条約をつくれば批准行為が必要となり、批准しない国が出てくるから、ジェノサイドが犯罪であるという普遍的原則に穴があいてしまうことになり、逆効果である。イギリスは、条約が必要か否かを国際法委員会で検討するべきだと主張し、ソ連も賛同した。そこでいったん小委員会を設置して議論を継続したが、議論は1948年4−5月のアドホック委員会に移った。
ところが、アドホック委員会は、国連事務総局が準備した条約草案を審議するのではなく、初めのうちはソ連提案の「基本原則」をめぐって討論し、次には中華民国提案の条約草案をめぐって意見交換を進めた。レムキンにとっては重大な危機であっただろう。アドホック委員会は最後に報告書をまとめて、事務局草案とは異なるアドホック委員会草案を採択した。総会第3会期でも議論が続けられた。この段階で、ジェノサイドが国際法上の犯罪であることに加えて、それは平時に犯されても戦時に犯されても犯罪であるという理解が共有された。
ジェノサイドの罪の保護客体をどうするかは繰り返し議論となった。
第1に、文化ジェノサイドである。レムキンの提案には最初から文化ジェノサイドが含まれていた。集団構成員を殺害して集団を破壊する物理的ジェノサイドや、集団の生活条件を劣悪にして生存を困難にする生物的ジェノサイドとは別に、例えばその集団の言語の使用を禁止する政策を通じてある言語集団を破壊するような行為を文化ジェノサイドと呼ぶ。ソ連提案の基本原則にも文化ジェノサイドが含まれていた。
しかし、議論の過程で、文化ジェノサイドは削除される方向に向かった。文化ジェノサイドに当たる行為は、犯罪として取り扱うよりも、人権問題として位置づけて国連人権機関で取り扱うべきだと考えられた。1948年12月9日の最終段階になって、ヴェネズエラが文化ジェノサイド復活の修正案を提出したが、賛同を得られず、提案を取下げた。
第2に、政治集団を含めるか否かが問題となった。レムキンの最初の提案では国民集団や民族集団の保護として理解していた。ゲーリンクに対する起訴状では人種、諸階級、国民、人種、宗教集団が列挙されていた。人道に対す罪としての迫害についても、国民、民族、宗教集団などが列挙され、ジェノサイドの罪の形成過程でもこれらの並べ替えが行われた。ポイントとなったのは、その集団の特性、集団としての永続性をどのように見るかであった。国民集団、民族集団、人種集団、宗教集団は永続性を確認しやすいが、政治集団は確認しにくい。結局、定義が不明確になりすぎるという理由で政治集団は除外された。後に国際刑事裁判所起草過程で政治集団の保護を唱える見解が再登場したが、新しいジェノサイド概念をつくるのではなく国際刑事裁判所の管轄にジェノサイドの罪を組み入れることが重要として、採用されなかった。
こうして徐々にジェノサイド概念が固まり、ジェノサイド予防のためのメカニズムづくりの議論も始まることになる。