ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年02月06日発行825号

第39回『レムキンとジェノサイド条約(7)』

 1948年12月9日、国連総会第3会期は、賛成56、反対0でジェノサイド条約を採択した。同時に、国際刑事裁判所設置を求める決議を賛成43、反対6、棄権3で採択した。

 レムキンが『占領欧州における枢軸支配』においてジェノサイド概念を提案してから僅か4年という短期日にジェノサイド条約が採択されたことは画期的なことであった。

 第1に、レムキンは亡命ポーランド人刑法学者であり、政府の立場を代表していなかった。設立されたばかりの国連(United Nations)は、国際連盟と同様に基本的には「国家―間―機関」である。国連憲章71条は、経済社会理事会がNGOと協議することを可能にしているが、国連総会や安保理事会に関しては「国際の平和及び安全を維持すること」など、もっぱら国家―間の問題処理が規定されているにとどまる。

 第2に、事務総局に協力した経過から、レムキンの構想は国連総会で大いに斟酌されたが、委員会は時には事務総局提案を検討対象からはずすなど、レムキンの構想通りに物事が進行したわけではない。しかし、文化ジェノサイドや政治集団などの定義問題を除くと、基本的にはレムキンのジェノサイド概念が反映したといえる。

 第3に、当事の国際法学においてレムキンの見解が十分に広く共通理解として受け容れられていたわけではない。ニュルンベルク裁判においてジェノサイド概念が登場したものの、判決では採用されていないし、東京裁判でも採用されていない。国際法上の概念として成熟していたか否かがそれ自体議論の対象となる。それにもかかわらず、国連総会はジェノサイド条約を採択したのである。

 第4に、国際刑事裁判所設置の必要性も認知された。第1次大戦後のヴィルヘルム裁判(実現しなかった)、第2次ぎたい戦後のニュルンベルク・東京裁判のようなアドホックな裁判ではなく、戦争犯罪を裁く常設の国際刑事裁判所の設置が国際法の俎上に昇った。

 このような意味で、レムキンは国連の意思決定システム及び現代国際法に圧倒的に重要な足跡を印した。国連史上もっとも成功した個人によるロビー活動として知られる所以である。

 今日の国際法の書物をひも解けばすぐに判明することだが、レムキンの名はジェノサイド条約だけとともにある。現代国際法にこれほど決定的な影響を与えたにもかかわらず、レムキンの名をそれ以外の分野で目にすることはほとんどないのである。

 ところが、ジェノサイドの罪が適用されるまでには、その後、半世紀の歴史が必要であった。ルワンダ国際刑事裁判所が1994年に起きたツチ大虐殺について元タバ市長のアカイェスにジェノサイドの罪を適用したのは、1998年9月2日のことである。

 国際刑事裁判所の設置も難航を極めた。1950年代から様々な努力が傾けられたが、実質的には棚上げ状態になっていた国際刑事裁判所設置も1990年代後半に急速に進行して、国際刑事裁判所規程が採択されたのは1998年7月17日であり、規程が発効したのは2002年7月1日のことであった。2003年春に判事と検事が選挙されて、ようやく動き始めたところである。

 こうしてみるとレムキンの構想はあまりにも早すぎたということになるかもしれない。文字通り半世紀の歴史を先駆けたのだから。

 最後に、ジェノサイド条約はすでに134ヶ国が批准しているが、日本政府は批准していない。

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