ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年02月20日発行826号

第40回『ジャン・ピクテの人道法原則(1)』

 人口僅か18万の小都市ジュネーヴには、国連欧州本部、世界保健機関、国際労働機関、世界貿易機関、人権高等弁務官事務所、難民高等弁務官事務所など数多くの国際機関がひしめいている。

 国連欧州本部と国際労働機関の間の丘上に聳える国際赤十字(赤十字国際委員会、国際赤十字社・赤新月社連盟)もその1つである。国際赤十字(ICRC)の窓からレマン湖の大噴水と、彼方にはモンブランが遠望できる。赤十字博物館を訪れると、赤十字の発足から今日に至る歴史を詳細に知ることができる。

 赤十字を設立したのがアンリ・デュナンの着想と熱意であったとすれば、今日の赤十字を支える理論を集大成したのはジャン・ピクテであったといえよう。赤十字関係者の間では「ピクテの諸原則」として知られる。

 ジャン・ピクテは、1914年、スイスのジュネーヴに生まれた。ピクテの少年時代は2つの大戦間の<戦争の違法化>の時代であった。軍拡と軍縮が激しく交差した激動の時期でもある。

 ジュネーヴ中心の旧市街の坂道を登ると、ジャン・ジャック・ルソーの生家がある。市内路線バスの停留所に「ジャン・ジャック」とか「社会契約」と名づけられているのがジュネーヴである。ルソーの生家を過ぎると裏手のバスティヨン公園に出るが、公園の中にジュネーヴ大学がある。名だたるジュネーヴ大学だが、小さな校舎である。ピクテはジュネーヴ大学・同大学院を経て、ウィーンとジュネーヴで司法修習を了えた後、1937年にICRCの法律担当者として勤務を始めた。

 第2次大戦は赤十字にとっても悲痛と多忙の時期であった。大戦後、再び惨禍を繰り返さないために、各国は<連合国>を恒常的な<国際連合(諸国家の連合)>として発足させた。赤十字も、1899年のハーグ条約、1907年のハーグ条約、1929年のジュネーヴ条約の不備を全面的に見直す作業を行った。

 ピクテはICRC総務部長として、1946年にジュネーヴ諸条約改正作業に携わった。1949年に開催された外交会議は、ジュネーヴ条約の全面改正を行い、4つのジュネーヴ条約をまとめあげた。

 第1条約(戦地にある軍隊傷病者の状態の改善に関する条約)

 第2条約(海上にある軍隊傷病者・難船者の状態の改善に関するジュネーヴ条約)

 第3条約(捕虜の待遇に関するジュネーヴ条約)

 第4条約(戦時における文民の保護に関するジュネーヴ条約)

 ピクテはこの会議に専門員として参加し、議論をリードした。後に赤十字は4つのジュネーヴ条約の解説書を刊行したが、もちろんピクテが責任者であった。1950年からハーグの国際法研究所の講師となり、後にはジュネーヴ大学助教授、ライデン大学・ルーバン大学・チューリヒ大学名誉教授にもなっている。

 1955年、ピクテは『赤十字の諸原則』を執筆した。これが一般に「ピクテの諸原則」と呼ばれることになった。

 1965年、ウィーンで開かれた赤十字国際会議は、ピクテの諸原則を簡潔にまとめなおして「赤十字の基本原則」を採択した。ピクテは1979年に『赤十字の基本原則解説』を公にしている。

 1977年のジュネーヴ諸条約追加議定書作成会議にもICRC首席代表を務め、2つの追加議定書を仕上げた。

 第1議定書(国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書)

 第2議定書(非国際的武力紛争の犠牲者の保護に関する議定書)

 今日の「国際人道法」という言葉もピクテによる造語といわれている。

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