恐怖と暴力によるイラク占領は、昨年の戦闘以来1万人をこえる民衆を死に追いやっている。しかし、報道されない虐殺や虐待は数多く、犠牲者の実態は明らかにされていない。反占領レジスタンス(抵抗闘争)の中心地の一つイラク中部・ラマディで聞いた話は耳を疑うほどのものだった。 (豊田 護)
車はラマディの市街地を抜け、曲がりくねった堤防状の道路を数分走った。ユーフラテス川の旧堤だろうか。あたりは氾濫原だったのかもしれない。畑が広がり、豊かな農村を感じさせる。道路の下に壊れかかった家が見えた。玄関以外はつぶれていた。
この家を100人以上の米兵が取り囲んだのは昨年11月下旬、ラマダン(断食)の月だった。午後5時頃、日が落ちて、一家は食事の準備を始めていた。頭上には戦闘機とヘリコプターが飛び回り、地上では戦車とハンビー(戦闘車)が銃口を向けた。
米軍による虐殺があったブラヒム家。証言するムハムッド(右端)、サラーハ(左端)(1月4日・ラマディ)
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米軍は、家主のブラヒム(45)と息子のサバーハ(24)、ブラヒムの弟ムハメッド(30)とファーデル(27)を後ろ手に縛りあげ、庭に腹ばいに押さえ込んだ。
話をしてくれたのは、ブラヒムの従兄弟ムハムッド(25)とサラーハ(24)だった。
「米兵は玄関扉をぶち破って突入した。同時に、裏口から入ってくる者と撃ち合いになった。家を取り囲んでいた米兵も窓から乱射した。米兵の同士撃ちだった。何人の兵士が死んだのかわからない」。だが、庭に腹ばいにさせられた男たちは、そのままの姿で後頭部を打ち抜かれた。ファーデルだけは奇跡的に命を取り留め、今も病院にいる。
女性や子どもたちも銃撃を受けた。その一人、ブラヒムと食事の準備を手伝っていた少女は言った。「あの人たちはお父さんを押さえ込んで、銃を耳につけ、それから撃った。女の人と子どもはキッチンに閉じこめられて、それからよそへ移されたの。みんなけがをしたわ」。目の前で父親や兄が撃ち殺された。少女の表情は硬く、今もおびえていた。
米軍はヘリコプターや戦車で家を砲撃し破壊した。通りかかった車5台、すべて銃撃を受け、殺された。仲間同士殺し合うという混乱と恐怖の中にいるのは、むしろ米兵の方だった。
米軍の無差別銃撃の犠牲者と母親
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理由もなく銃撃
ブラヒムの母親カルファは言った。「私たちは他人から非難されるようなことは何もしていないのに、米兵は息子たちを殺した。米兵の行動は恐怖だ。家や人・車を何の理由もなく銃撃する。時には子どもたちが眠っている時刻に、ただ子どもを怖がらせるためだけにロケット弾の音を聞かせる」。一気に語られる言葉は激しかった。「米兵は、お前たちはテロリストだといいがかりをつけた。米軍はイラクに自由をもたらすと言ったが、結局は彼らこそテロリストだったことを証明した」
米軍が引き上げたのは、深夜12時にもなっていた。後日、米軍は「テロの容疑は間違いだった」と言ってきた。 10月には、狩猟銃砲店の店主が銃を隠し持っているとの通報で自宅を深夜急襲されている。後ろ手に縛られ連行される途中で撃ち殺された。これも、根も葉もない密告だった。
12月15日には、逮捕したサダムをさらし者にしたことに抗議するデモに発砲。米兵は無差別に銃を撃った。
この日は各地でデモが行われた。バグダッドのアダミア地区もその一つ。米軍はモスクの前で行われた数千人のデモ隊に乱射し、40人近くの人を殺し、百数十人にけがを負わせた。通りすがりの人も撃たれた。中には、収容された病院のベッドの上で、米兵に撃ち殺された人もいたという。
カルファは続けた。「日本人がイラク再建を手伝ってくれるなら歓迎する。私たちは社会の安定と治安をのぞんでいる。それができないなら来ない方がよい。今は夜出歩くこともできない。米兵に道で撃たれるからだ」
誰でもいいから占領軍を追い出してくれ。そんな苛立ちを感じた。これだけ言うとその場を立ち去ってしまった。
日本の評判ガタ落ち
ムハムッドが話をつないだ。「日本は兵隊をイラクに連れてくるな。日本とイラクは長い間、よい関係だった。今さらこの関係を壊すような問題が起こってほしくない。日本政府に派兵を思いとどまらせるために、できることは何でもやってほしい」
ラマディの街角で何度も聞いた。「日本の評判はがた落ちだ」。これが占領軍の一員に加わる日本に対する偽らざる評価だ。
拡大するレジスタンスを占領軍は暴力と恐怖で押さえつけようとしている。ある米軍将校は「恐怖や暴力をたっぷり経験して、復興資金をたんまり使ったら、ここの連中はわれわれが助けに来ているんだと説得できると思う」と語っている。日本政府が決めた50億ドルの「復興資金」は、イラク民衆を押さえ込む役割を果たすものなのである。自衛隊がいかに振る舞おうと、イラク民衆から忌み嫌われる存在であることは間違いない。 (続く)
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