2004年04月02日発行833号

【カルテの余白 がんと向き合う(下)】

 「尊厳死」とは、たとえどんな事情で死をむかえるにしても、人間のからだと心、その人らしい個性が最後まで大切にされて死を受け入れていく過程といえます。しかし、実際にはがんという病気だけが、ことさらに「尊厳死」の話題を提供し、しばしば、「安楽死」とむすびつけられることがよくあります。

 進行した卵巣がんだったAさんは、もうこれ以上ははちきれそうというくらい、パンパンにふくれあがったおなかで、息もできないくらい苦しくなって、はじめて受診されました。もちろん、食事ももう何日ものどを通らないということでした。「母は、がんだと悟っています。『いっぱい管をつけて、苦しんで死んだ妹みたいになりたくない』って、倒れるま、家に居たいと言っていたのですが…」と、つきそわれた娘さんが、事情を説明してくれました。「これ以上、苦しませたくないので、無駄な治療はしないで、眠れるようにしてください」と言われます。

 尊厳ある死が、すなわち痛みや苦痛の無い死を前提にしていることは当然といえますが、そんなことは癌の末期には不可能という終末期医療への不信が色濃くあります。そんなことなら、なにもせず眠らせてほしいという患者家族の強い希望につながるのです。

 Aさんは入院後、何リットルもの腹水を抜いて呼吸が楽になると、食事を数週間ぶりに食べられました。「おいしいです。今まで食べた、どんなご馳走よりおいしいです」といわれます。「横になってゆっくり眠れたのも、ほんとうに、生き返った気分です」と、穏やかに言われました。手術は無理でしたが、抗がん剤によく反応する卵巣がんだったので腫瘍もいったん小さくなり、腹水もたまらない安定した期間を2年以上すごされました。家族との「人間らしい」生活を楽しむことができました。

 最後に入院されたときは、「家族と1日でも長く話がしたいし、顔を見たいのでよろしくお願いします」といわれます。症状の進行にしたがって、栄養補給の点滴・鼻腔チューブ・排尿カテーテルと、見た目に、「非人間的な」処置、なされました。でも、モルヒネを中心にいろいろな方法を組み合わせて、疼痛管理(ペインコントロール)は、Aさんの希望を可能にしました。たくさんのチューブをつけたAさんは、亡くなる前日まで、家族と会話されて満足そうでした。

 本当の尊厳死は、見た目の悲惨さではなく、日進月歩の有効な疼痛管理、苦痛を軽減するさまざまの処置を行うことのうえに成り立つものです。それらの努力を放棄した「安楽死」の発想こそ、尊厳を奪われた死といえます。

(筆者は、大阪・阪南中央病院産婦人科医師)

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