ラッセルが国際戦争犯罪法廷を呼びかけたのは、1966年6月18日の『アメリカの良心へのアピール』だが、それ以前からアメリカによる戦争犯罪の告発を続けていた。
アメリカはずるずるとなし崩し的にヴェトナム攻撃を進めていったが、1962年1月には枯葉剤作戦を展開していた。
ラッセルは、63年3月22日、『ワシントン・ポスト』に残虐な化学戦を非難する訴えを始めた。4月12日には『ニューヨーク・タイムス』、5月17日には『ガーディアン』と続いた。ヴェトナムで多くの僧侶が抗議の焼身自殺をしていた時期である。
64年3月17日、ラッセルは「ヴェトナムにおける戦争と残虐行為」を『ワシントン・ポスト』に発表した。
65年には米軍はナパーム弾も使用し、無差別爆撃を集団的自衛として正当化した。米軍の毒ガス使用も明るみに出て、全米ティーチ・インという形の反戦運動がアメリカでも広がり、世界がヴェトナムに注視するようになっていた。
65年10月、ラッセルは、イギリス労働党が戦争政策を採っていることに抗議して、それまで51年間保有してきた党員証を破棄した。11月、ラッセルは国際戦犯法廷の準備を始めた。
こうした経過を経て『アメリカの良心へのアピール』は書かれた。「自由の為の戦場はワシントンにある。それは米国とアメリカ市民を侮辱した戦争犯罪人たるジョンソン、ラスク、マクナマラに対するたたかいのなかにある」。
ヴェトナム側はそれ以前からアメリカによる国際法違反の数々を指摘し、戦争犯罪だと指摘していたから、ラッセルの提唱にすばやく反応した。アメリカの戦争犯罪を告発する法廷を西欧の哲学者ラッセルが提唱したことに大きな意義があった。
66年7月、北ヴェトナムには戦争犯罪調査委員会、南ヴェトナムには戦争犯罪告発委員会が設立され、迅速かつ精力的に調査が進められた。8月26日、ラッセルはジョンソン米大統領あての書簡で国際戦犯法廷への代表者の出頭を要請した。
66年11月、ロンドンで国際戦争犯罪法廷設立会議が開かれた。
ラッセルを名誉裁判長、サルトルを執行裁判長とし、アイザック・ドイッチャー(英)、ウラジミール・デディエ(ユーゴ)、シモーヌ・ド・ボーヴォワール(仏)、ローラン・シュワルツ(仏)、ギュンター・アルデンス(豪)、レリオ・バッソ(伊)、デビッド・デリンジャー(米)、ストークリー・カーマイケル(米)、メーメド・アリ・アイバール(トルコ)、マームド・アリ・カスリ(パキスタン)、アマド・ヘルナンデス(フィリピン)、森川金寿などを法廷メンバーとした。
「法廷の目的と目標」が採択された。
1 平和に対する罪、侵略の罪。
2 違法な兵器の使用。
3 民間施設爆撃。
4 捕虜・民間人に対する非人道的取り扱い。
5 ジェノサイド。
法廷設立の記者会見でラッセルは、法廷が「沈黙の犯罪」を防止することを唱えた。早くからヴェトナム反戦を呼びかけてきたラッセルの声に、多くの知識人が応え、ヴェトナム人民を励ましながら、民衆法廷が立ち上がった。まさにアメリカでもヴェトナム反戦が広がり始めた時期であった。
ラッセルの闘いは1970年2月3日、97歳の輝かしい思索と運動と情熱の生涯を終えたその日まで続いた。それは米軍による残虐な犯罪の代名詞のひとつとなった「ソンミ(ミライ)事件」が発覚した時期であり、ラッセルは国連に対して調査を申し入れたばかりであった。