2004年09月22日発行855号

【宜野湾市民大会 「普天間」返還へ3万人】

 普天間基地早期返還―9月12日、3万人の市民が沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故に怒りの声を上げた。「普天間返還」日米合意を引き出した1995年の8万5千人県民総決起大会に次ぐ規模で、市民大会としては最大の規模となった。


予想こえる怒りの大きさ

米軍のヘリ墜落事故の怒りに3万人の市民で埋まった市民大会会場(9月12日・沖縄県宜野湾市・沖縄国際大学)
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 会場は、事故現場に隣接する400メートルトラックの取れる沖国大グランド。3分の2が人で埋められ、高台から見守る参加者も。沖国大の学生をはじめ、ユニホーム姿で参加した少年野球チーム、エイサー大会のさなかにかけつけた各地区青年会のエイサー隊、家族ぐるみの参加など、若者が目立った。

 事故から1か月。墜落時刻の午後2時18分にサイレンが鳴り、200羽のハトが平和の願いを込めて青空に放たれた。

 主催者を代表して伊波洋一宜野湾市長は、「予定の1万人をはるかに超える参加者に怒りの大きさを感じた。とりわけ多く参加した若い人への責任を感じる」とあいさつ。普天間移設にこだわる稲嶺知事への不満を表明し、今後、大会決議(骨子別掲)と約5万5700人分の署名を知事・政府に提出することを明らかにした。

 発言は自治会・PTA・婦人連合会・老人クラブはじめあらゆる階層から12人。宜野湾区の仲村清自治会長は「涙が止まらず、米軍への怒りが込み上げてきた。自治会として全会一致で決議を上げるようなことはこれまでなかった。生命と財産を守るためにがんばる」と街ぐるみの決意を表明した。

基地は住民守らない

 小学生・中学生の代表も元気いっぱいに意見表明した。現場から300メートルの志摩志小の島袋洋奨(ようすけ)さん(6年生)は部活動に向かう途中で事故現場を見た。「アメリカ兵がたくさんきていて、『また爆発する』と言われ驚いて逃げた。1学期に読谷村のガマにも行ったりして平和の尊さを勉強した。人と人が信頼し助け合うことが必要。未来は私たちの手でつくるんだ」自宅から黒煙を目撃した嘉数中の内原理沙さん(3年生)は「基地が私たちを守ってくれると思ってきたが、考えが変わった。死傷者が出なかったからと言って、『不幸中の幸い』と済まさないで。基地のない平和な沖縄を」と訴えた。

普天間も辺野古もダメ

「基地のない平和な沖縄を」と訴える中学生代表
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 辺野古移設問題は大会スローガン・決議では「再考」との表現だが、「反対」をきっぱり表明したのは高校生と大学生。中部商業高校・比嘉由梨恵さんは「移設は危険のたらい回しでしかない。自然を破壊し、住民被害をもたらす基地の完全撤去を」。沖国大・新膳さんは「移設しても基地あるが故の危険はなくならない。基地のない沖縄へ、今日をその第一歩に」と訴え。会場から指笛が響き最も大きな拍手を受けた。

 沖国大・石原昌家平和学ゼミの学生は会場入り口で、学長宛ての「"米ヘリ激突壁"の保存を求める署名」を集めた。メンバーは、普天間飛行場付近で起きた事故を調査し3メートル四方のマップを作成したり、事故を訴えるイラスト入りのTシャツ1千枚とうちわ350枚を販売するなど、誰もがわかりやすい運動に取り組んでいる。

 会場内を回って70人分の署名を集めたある女学生(2年生)は「Tシャツもうちわも売れきれました。1万人集まるかどうかと思っていたので3万人には驚いた。うれしい」とにこやかに話した。9月9日の辺野古ボーリング調査強行時には2年生全員の9名でかけつけた。「普天間でも辺野古でも基地はだめ。座り込みを続けているおじいやおばあを見て、移設させてはいけないと思った」。今後は、事故を記録するため50人から聞き取り調査を行い証言集を作成するという。

 

大会決議(骨子)

1.すべての被害に対する謝罪と完全補償

2.民間地上空での飛行中止

3.「普天間」のヘリ基地としての運用中止

4.「普天間」の早期返還

5.日米特別行動委員会(SACO)見直し、辺野古沖移設の再考

6.日米地位協定の抜本的見直し

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