「日の丸・君が代」をめぐる天皇の発言が波紋を広げている。場面は10月28日の園遊会。列席した米長邦雄(棋士、東京都教育委員)との間で次のようなやりとりがあった。
米長「日本中の学校に国旗を掲げて、国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
天皇「やはりあの、強制になるということでないことが望ましいと」
米長「もちろんそうです。すばらしいお言葉をありがとうございました」
米長は石原都政が進める「日の丸・君が代」強制の旗振り役をつとめてきた。園遊会を絶好の機会とみた米長は、天皇から強制政策へのお墨付きを引き出そうしたというわけだ。
だが、天皇には「ご苦労様です」といった肯定のサインを送れない事情があった。象徴天皇制には「世俗からの超越性」によって支配層と市民の対立を吸収するという機能がある。米長のような露骨な右翼に加担したと見られてはまずいのだ。おそらく天皇は「お調子者の自慢話に付き合って余計な議論を起こしたくない」と判断したのだろう。
もっとも、米長の意図とは違った形になったとはいえ、今回の発言が「天皇は国政に関する権能を有しない」と定めた憲法に抵触する政治的発言であることに変わりはない。
「天皇発言は従来の政府見解にそうもの」「だから政治的利用を防ぐことになった」という論調がある(たとえば10/30付の朝日新聞社説)。まったく、とんでもない話である。天皇が政府見解に同調すること自体が問題なのだ。
時の権力は一貫して天皇を自らの権威づけに使ってきた。天皇はそのために存在してきたのである。政治利用されない発言など原理的にありえない。実際、「自発的に掲揚したり斉唱したりすることが望ましいということを述べられたのだと思う」(中尾成彬・文部科学大臣)など、さっそく今回の天皇発言を利用する動きが出ている。
「陛下も人間だし、何も言えないというのはおかしい」(岡田克也・民主党代表)との発言もピントがずれている。天皇制というシステム自体が非人間的なのだ。その現状を改めたいというのなら、主権在民の憲法原則に反する特権的な地位をなくすしかない。つまり天皇制の廃止である。
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「都教委のやっていることは強制じゃない」と石原慎太郎・都知事が弁解するなど、「日の丸・君が代」強制派は異例の天皇発言に戸惑いを隠せないでいる。
彼らのろうばいぶりを見ていると腹立たしい気持ちでいっぱいになる。主権者である市民の「強制やめて」の声には耳を貸そうとしないくせに、たかが象徴にすぎない天皇の一言に右往左往するとは何たることか。これほど反民主主義的な話はない。 (O)