「戦後教育のせいで子どもがおかしくなった。だから大もとの教育基本法を変えねばならない」−−教育基本法改正論者が必ず口にする論法である。本書はこうしたデマゴギーを徹底的に論破することを通して、教育基本法改悪の本当の狙いを明らかにしている。
「与党改正案中間報告の中で最も驚くべきことは、現行の第十条の改正案です」と著者は指摘する。現行第10条(教育行政)とは「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」というもの。行政が教育(現場)に対して不当な支配を及ぼすことを禁じた条項である。
これが与党改正案では「教育行政は、不当な支配に服することなく」と正反対の意味に変わっている。主権在民の憲法原則をひっくり返し、国家権力が全能の支配者として教育を牛耳っていく、というわけだ。
このように、「国家のための教育への転換」という基本を押さえれば、教育基本法改正論のインチキぶりがよく見えてくる。たとえば愛国心教育である。
自分の生まれ育った共同体に愛着を持つこと自体は自然な感情だが、「われわれ」とは違うものとして「あいつら」を排除するという要素がどうしても出てくる。愛国心教育はこの側面を強調して、他者の排除や暴力を正当化しようとする。何のために。戦争国家づくりのためだ。
事実、教育基本法改正をめざす国会議員の集まりで次のような発言が飛び出した。「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人があって今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる」(西村眞悟・民主党議員)
与党改正案の言う「道徳心・宗教的情操の涵養」にしても、その狙いは「国家や既存の権力に対して従順な国民精神を培うこと」にある。すべては「戦争をするための精神的な準備」にほかならない。
教育基本法改悪には国家主義とは別の側面もある。「教育の機会均等」原則を廃し、市場原理によって教育を再編するという新自由主義の動きだ。国家主義と新自由主義、教育基本法改正論を貫く二つの柱には共通点があると著者は言う。どちらも強者の論理である、ということだ。
新自由主義による犠牲は「弱い者が淘汰されていくのは敗者の自己責任だ」という論理で正当化され、国家主義による犠牲は「お国のための尊い犠牲だ」という論理で正当化される−−こうした思想が今の「教育改革」や教育基本法改正論を導いているのである。
戦争国家をめざす国家権力の介入から教育の自由を保障する砦として、今こそ教育基本法が活用されねばならない。本書は、改悪反対の運動を大きく広げていく一助となろう。 (O)