ロゴ:カルテの余白のロゴ 2005年02月11日発行873号

『不妊治療(下)』

 そもそも、不妊は「病気」なのでしょうか。妊娠しないということは、一般的には毎日の生活や体調を維持することに何の支障もありません。子どものある生活を切実に望んだ時や妊娠しない理由に婦人科的な病気があって身体的苦痛を伴う時にのみ、不妊は治療の対象となるわけです。

 にもかかわらず、「不妊は治療すべし!」という至上命令が、妊娠しない女性に脅迫的にのしかかっていることも多くみられます。

A「もう、三か所も病院通いしました。原因がはっきりしないので、対策も難しいらしいです。引越しでこの病院にかわりたいのですが」

私(紹介状をみながら)「そうですね排卵は規則的ですね。卵管の通過性も検査済みですね。ほかの検査もずいぶん詳しくされてますね」

A「少しでもタイミング合わせようと、排卵誘発もしました。卵巣過剰刺激になって入院して怖くなりました。人工受精もやりましたけど、夫が精液を取るのに抵抗があるって…。あとまだ、何かできます?」

私「体も気持ちも、おふたりにとって治療がかえって負担になって、不健康ではありませんか。いちど、治療を休まれたらいかかです?」

A「異常が見つからないなら必ずできるからちょっとでも何かしてもらって、早く孫を見せて、と言われると…。わたしも一生懸命『努力してる』って思えるほうが気が楽なんです」

 圧倒的に原因不明、つまり対策が立てられない不妊が多い中、「治療」をする側に止める、あるいは休むことをきちんと提案する義務があるのではないでしょうか。対策が不明でも、また、副作用の危険がありむだな出費のくりかえしとわかっていても、「どうしても欲しいといわれたら、本人の希望だから治療する」というのは、大変なごまかしがあると思います。他の病気、たとえば癌や筋腫でそんなやり方はまずしないでしょう。

 女性のからだの本来の健康や人間性を二の次にして、ともかく子どもを、と本人も思わされていることが多いのが不妊治療です。

 きちんとした診断、治療効果の評価、治療の変更や休止は、もちろん最重要点ですが、もっと根本的な視点が抜け落ちがちです。

 もし子どもがいなければどうして前途真っ暗になるのか。子どもを得ることでしか開けない未来というのはなにか足りない社会ではないのか。家庭機能の維持や老親介護を私的に、女性のみに負わせようとする社会の矛盾の犠牲になっているのではないでしょうか。

 妊娠することもしないことも自分で選べる社会が、誰もが本当に健康を守れる社会だと思います。

(筆者は、産婦人科医)

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