2000年12月12日、女性国際戦犯法廷判決が言渡された。この日の判決は、日本軍性奴隷制をめぐる基本的な事実認定と、被告人のうち昭和天皇に限っての有罪の言渡しとなった。起訴事実の全体に対する判決を作成する余裕がなかったため、判決全体の言渡しは後日に延期となり、「仮判決」を言渡したものである。昭和天皇ヒロヒト有罪の瞬間、会場は猛烈な拍手に包まれた。東京裁判で裁かれることがなく、その後の日本社会ではタブーとなった天皇の戦争責任が初めて裁かれたのである。性奴隷制の被害を生き抜いたサバイバーたちの喜びは言葉では表せない。男性が勝手に描いてきた<歴史>を女性の側から書き直す試み、加害者が独占してきた<歴史>を被害者が取り返す挑戦が見事に結実した。そして、最終判決は2001年12月4日、ハーグ(オランダ)で言渡された。最終判決は膨大な分量にのぼる。
「第1部序文と裁判の背景」は次のように始まる。
「1990年代初頭、女性たちは、50年近くにわたる苦痛に満ちた沈黙を破り、アジア太平洋地域で1930、40年代の戦争中に、自分や他の女性たちが日本軍性奴隷制のもとで被った暴虐に対し、謝罪と補償を求めた。『慰安婦』と婉曲的に呼ばれる、被害を受けた生存者[サバイバー]たちの勇気ある証言は、アジア太平洋地域全域にわたってさらに何百人ものサバイバーたちに声をあげる勇気を与えた」。
判決は冒頭から最後まで、被害者を単なる客体としてではなく、性奴隷の歴史的本質を追及し、責任の解明を求める主体として、法廷の主体として位置づけている。
「20世紀のまさに最後に開かれた日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷は、サバイバーによる、サバイバーのための、そしてすでに亡くなった犠牲者のための、10年近くにわたる活動の到達点である。本法廷は、諸国家が正義を遂行する責任を果たさなかった結果として設立された」。
判決の「民衆法廷の歴史」についての記述には事実誤認が散見される。加害国で開催されたのは初めてとしているが、クラーク法廷やアジア民衆法廷の前例がある。女性法廷は初めてとしているが、女性世界法廷の多数の前例がある。
しかし、判決が示す民衆法廷の思想的根拠は明快であり、今後も大いに参照されるべきである。
「これは民衆法廷、グローバルな市民社会の声によって発案され、設立された法廷である。本法廷の権威は、国家や政府間組織によって生じるものではなく、アジア太平洋地域の人々、もっと正確に言うなら、日本が国際法のもとで説明する義務を負っている世界中の人々に由来するものである」。
「民衆法廷は、『法は市民社会の道具である』こと、つまり、単独で行おうと、国家と共同で行おうと、政府にのみ属するものではない、という理解を前提としている。したがって、国家が正義を保証する義務を履行しない場合、市民社会は介入することができるし、介入すべきである。過去の民衆法廷の事例に見られるように、市民社会は国境に制約されず、国境を越えて共有された共通の価値観が活力源になっている」。
「民衆法廷は国際法の空白部分を埋め、人道と正義の原則に基づく『民衆法』をつくり出して国際法の発展に新たな地歩を築くことができる」。
サバイバーを主体として位置づけつつ民衆法廷の思想を打ち出した判決は、結論部分に至るまでその姿勢を貫いている。
<参考文献>VAWW NET Japan編『女性国際戦犯法廷の全記録I・II』(緑風出版、2002年)