小泉首相の靖国神社参拝が中国や韓国の「反日感情」に火をつけた−−日本の新聞の説明はこの程度で終わっている。そのため首相の靖国神社参拝がなぜ問題なのか、きちんと理解している人は少ない。
そうした靖国問題を考える上で、本書は最良の解説書といえる。哲学者である著者は、この問題の何たるかを明快な論理で解き明かしている。
まず押さえておくべきは、靖国神社は戦死の悲しみや痛みを共有する追悼施設ではない、ということだ。戦死者を「国のために死んだ名誉の死者」と美化する顕彰施設なのである。
大日本帝国は靖国神社を天皇の神社として特権化し、その祭祀によって軍人軍属の戦死者を顕彰し続けた。何のために。それは「遺族の不満をなだめ、その不満の矛先が決して国家へと向かうことのないようにすると同時に、何よりも軍人軍属の戦死者に最高の栄誉を付与することによって、…彼らに続く兵士たちを調達するため」であった。
「もう子供は帰らんと思や、さびしくなって仕方がないが、お国のために死んで、天子様にほめていただいとると思うと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気がでます」。こうした遺族の発言に示されるように、靖国信仰は人間として当然の悲哀感情を抑圧する機能をはたしていた。国民を精神面から戦争に動員するための国家装置−−それが靖国神社の本質であった。
次に著者は、靖国神社の歴史認識を問題にする。靖国神社には、日本発の海外出兵となった「台湾出兵」、台湾先住民制圧のための「霧社事件」、朝鮮半島侵略の発端となった「江華島事件」などの戦死者も合祀されている。つまり、植民地獲得と抵抗運動弾圧のための日本軍の武力行使を靖国神社は「正義の戦争」とし、そこで死んだ日本軍の将兵を「尊い犠牲」と顕彰しているのである。
その靖国神社には、台湾人・朝鮮人も合祀されている。アジア・太平洋戦争において日本軍の軍人軍属として徴用され死亡した人々だ。彼らの遺族にしてみれば、肉親が侵略の尖兵たちと同じ「護国の神」扱いされることは精神的苦痛以外の何ものでもない。
最後に著者は、日本政府が検討をはじめた「無宗教の新国立追悼施設」について考察している。結論から言うと、その国家が軍事力を持ち、戦争や武力行使を行う可能性がある限り、いかに宗教性を排除しようが、国家による戦死者追悼施設は「第二の靖国」化する。
では、「国立追悼施設」が新たな戦死者の受け皿とならない必要条件とは何か。著者は「戦争に備える軍事力を実質的に廃棄すること」「過去の戦争についての国家責任をきちんと果たすこと」だと指摘する。これは日本がアジア諸国と真の友好関係を築く必要条件とも言えよう。 (O)