2005年01月28日発行871号

【「最後まで闘い続けてほしい」 自分の考え持って行動】

鉄建公団訴訟原告家族・横田文吾さん
横田文吾さん
写真:

 18年前、国鉄分割・民営化で解雇された横田厚さん。釧路闘争団の中でただ一人、鉄建公団訴訟の原告に加わり、解雇撤回をめざして闘っている。「最後まで闘い続けてほしい」と、父にいつもエールを送り続ける長男の文吾さんに話を聞いた。

 横田文吾さんは26歳。高校卒業後、東京の大学に入り、今は司法試験合格をめざし奮闘する毎日だ。「大学3年の頃から考え出して、実際には卒業後、試験勉強を始めた。来年までに合格できれば」と夢がふくらむ。

国鉄が分割・民営化されJRが発足した18年前は小学2年生だった。「お父さんと一緒に客貨車区にあった風呂に行ったり、職場の人がよく家に来て、結構楽しかった」と国鉄時代の温かみのある生活を思い出す。しかし、「実際に首を切られたのは覚えていない。お金に困ったり、学校でいじめにあったこともない。ただ、お母さんが働き出したのは不思議に感じた」。両親は教育熱心で、本など必要なものはいつも面倒見てくれた。

 文吾さんは先天性虹彩欠損、白内障という目の障害を抱えている。「幼い頃から半年に1回はお父さんが運転する車で札幌の大学病院に治療に行った。今は日常生活に支障はないが、両親にかなり苦労をかけていた」と振り返る。

父らしい決断

 2000年5月、四党合意。国鉄を継承したJRの責任を不問にし、闘争収拾を狙ったこの動きは闘争団を二分した。釧路闘争団の多数は賛成。父・厚さんは文吾さんへの電話で「四党合意に反対することにしたから」と淡々と話した。ネットや新聞で情報を調べていた文吾さんは「昔から自分の考えを持って行動していたから、お父さんらしいと思った。僕に話したということは、お母さんにも話してやっているから、心配はしなかった。ただ、今までは近くに味方がいたのに」。いつも淡々と冷静に語りかける父の姿に不安はなかった。

父・横田厚さん(前列左から2人目)と亡き母・深雪さん(右隣)
写真:事務所開きで家族そろって写った写真

2003年3月8日。文吾さんにとって忘れられない日だ。おばから「お母さんが亡くなった。飛行機で来なさい」と連絡が入った。旭川で開かれる学習会に向かう途中、両親の乗った車がスリップし横転。母・深雪さんが亡くなり、父も重傷を負った。

翌日、飛行機で釧路へ。その足で父が入院する病院に向かった。「お父さんが泣いているのを初めて見た。(事故を起こしたことを)責める気にもなれなかった。妹がまだ高校3年生で、とにかく自分がしっかりしなきゃと、それだけは覚えている」

大けがをおして厚さんは車椅子で葬儀に参加。亡き深雪さんのそばを離れなかったという。「お父さんの一番の理解者だったお母さん。子どもながらにすごく仲のいい夫婦だなあと思っていた。喧嘩をしているのを見たのは1回だけ」。母が線香のにおいが嫌いだと言っていたのでお別れ会でという話も出たが、結局普通の葬式を行った。「会館に500人くらい来て、入り切れないほどの人にびっくりした。弔電の数もすごくて。両親が多くの方々に支えられていたことを改めて感じた」

原告席で傍聴

 母が亡くなった次の年の1月、東京から父の支援者が釧路に来てくれ、一緒に飲みに行った。「一人で立ち上がったお父さんを支援してくれる人がいてうれしかった」。気持ちを整理するのに1年以上かかった。

父・厚さんと一緒に鉄建公団訴訟の裁判を傍聴したことがある。「原告席で傍聴させてもらった。なかなか厳しい裁判だということを再認識した。でも、僕が言わなくたって最後まで闘っていくと思う。闘ってほしい」

最後に「照れくさくて直接は言えないけど、尊敬している。あんな人になりたい」と父への思いを結んだ。

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