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(国民の責務)
第12条 国民は、これ(注・憲法が保障する自由と権利)を濫用してはならないのであって、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う。(自民党草案)
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国家が個人に優越
現行憲法は、義務教育・勤労の義務・納税の義務以外には、一切の義務を国民に課していません。しかし、草案は「自由には責任が、権利には義務が伴う」と、当然のように自由・権利全般を規制しています。これは、明らかに誤った考えです。「自由・責任」と「権利・義務」は対を成すものではありません。
「人は生まれながらにして自由であり権利において平等である」というのはフランス人権宣言(1789年)の時代からの基本的な考え方です。まず「自由・権利」ありきなのです。
その上で、現行憲法第12条は、「国民は、これ(憲法が保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」と表現しています。ここでいう「公共の福祉に反する」とは、「他者の権利・自由を度を越して侵害してまで押しとおす」ことです。そして、この「他者」に公権力は含まれません。
草案はこの「公共の福祉」を「公益または公の秩序」に置き換えました。自民党の「憲法改正草案大綱」は、この「公益または公の秩序」について「国家の安全と社会の健全な発展を図る『公共の価値』」として説明しています。「国家の横暴から個人の自由と権利を守る」という近代憲法の存在理由を真っ向から否定するものです。
弱者を排除する社会
草案弟13条は、この「公益及び公の秩序」によって、個人の「生命、自由及び幸福追求の権利」を制限しています。
草案が前提としている社会は、前文に記されているとおり「自由かつ公正で活力ある社会」=競争原理のみで成り立つ、利潤を至上の価値とする社会です。弟13条の場合「公益」は利潤であり、「公の秩序」は競争原理です。
人間は、障害を負って生まれる者、貧困家庭に生まれる者など、スタートラインがまちまちです。それでもすべての国民が個人として尊重され、それぞれが思い描く幸福な人生を追求できるようにすることこそ、人が社会を構成する意義です。
草案は、利潤を手にするひとにぎりのグローバル資本に連なる者たちのために、社会の資源のすべてを動員することを憲法に書き込もうとしています。そのような社会では、社会保障や福祉は「社会的コスト」であり利潤の妨げでしかありません。「自助努力」「自己責任」の名で、高齢者・障害者・子どもなど社会的・経済的弱者は排除されてしまいます。人間の社会を「弱肉強食」の動物の世界へとおとしめるのです。
あらゆる権利を「公益」で制限
草案は、財産権(第29条)についても「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に置き換えられました。自民党は「9条」改悪によって戦争を「国防」の名によって正当化しようとしています。「国防」は「公益」となってしまうわけですから、「戦争協力拒否」のため基地に土地を貸さない(=財産権の行使)反戦地主の行為は、「違憲」とされ、有事法制による財産の収用は無条件に「合憲」とされるでしょう。
反戦・平和を主張するデモ行進・ビラまきなど「表現の自由」や「有事体制」への不服従は、「テロを利する」「誤ったメッセージを送る」という「公益と公の秩序に反する行為」として簡単に規制され、刑事弾圧や地域社会からの排除を一層容易にしていくでしょう。
企業経営は憲法上「財産権」「職業選択の自由(第22条)」の行使と関連します。「職業選択の自由」からは「公共の福祉に反しない限り」という制約が取り払われています。これによって「公益=利潤」のための企業閉鎖・合併・売買は推奨され、労働者の生活権は主張さえ許されなくなってしまいます。「公共の福祉」から解放された企業は、社会的影響への責任から逃れられます。下請け・関連会社やそこで働く人びとの生活、また、地域経済への影響などは草案の下では一切かえりみられなくなります。
人間社会の発展に逆行
草案第12条に始まる権利と自由への規制は、グローバル資本が支配する「国家」の前に国民をひざまづかせるためのものです。
これは「立憲主義」という手段を通じて、国民一人ひとりを人として尊重し、国家のくびきから解放しようとしてきた人間社会の発展に対する暴挙であり、許されるものではありません。